昼過ぎに貴鬼から電話がかかって来た。
「ね,ね,カミュお兄ちゃん,宿題教えてよ」
カミュは白羊宮まで一人で降りて行った。
小学校2年生の宿題は大人のカミュにとって簡単だったが,答えを教えてやるのではなく,あくまで貴鬼自身に問題を解かせよう,と建設的に教える。
かつて氷河の師をしていた頃,聖闘士としての実技だけではなく,氷河が一人の聖闘士として社会に出ても困らないように氷河をシベリアの近隣コホーテク村の小学校に通わせ,宿題や勉強もきちんとカミュが見ていた。
そんなこともあってか,カミュは貴鬼の宿題も上手に教えていた。
「よし,もう少しだ。がんばれ,この問題で終わりだ。これが全部できたら何でも好きな曲を弾いてやるぞ」
「やったぁ!」
お茶を運んできたムウが机にかじりついて一所懸命鉛筆を走らせている貴鬼の背中を見てとても驚いた。
結局また,カミュはムウの所で夕食をごちそうになった。
夕食の時間になるとアルデバランがやって来た。
「へぇ,貴鬼が宿題を完璧にこなしたのか。そりゃすごい。俺が見ると,つい遊んでしまって捗らないんだ。全くまいるよな」
と笑った。
カミュはこの3人は貴鬼を中心に血の繋がりがないはずなのにまるで家族のように機能しあっていると思った。
ムウが貴鬼の保護者として子育てをしているのと,アルデバランは若いのに必死に貴鬼の父親代わりになろうとがんばっていることがよく分かった。
たとえ本当の親と子でなくても温かい家庭だと思った。
カミュはそんな3人をとてもうらやましく思った。
氷河との生活が恋しくなった。
もし,氷河が聖域に謀反することをあきらめてくれれば,もう一度氷河を自分が引き取って,アフロディーテと氷河と自分,3人で暮らしたい。
カミュはそんなことを考えている。
今度の青銅聖闘士の件が片付いてひと段落ついたら一度アフロディーテに相談してみよう。
彼女ならきっと承諾してくれるだろう。
 
帰り際,ムウがカミュに声をかけた。
「あなたの都合の良い時で構いませんから,たびたび貴鬼のお勉強を見てやって下さいませんか」
「急にそんなこと言われても…私は本職の教師ではない」
カミュは中学・高校の音楽教員の教員免許があるが,小学校の教員免許は持っていない。
「いいえ。私は今日の今日まであんなに机にじっと座っている貴鬼を見たことがありません。この通りお願いします」
「…わ,分かった」
あまりに熱心に頼みこまれるので,カミュは承諾するほかなかった。
とはいえ,カミュも少しは興味がないわけではなかったので,自宮に戻ると,本棚からバインダーを取り出した。
これはカミュが氷河のために作ったパズルや絵を描くことで算数や文字の書き方を覚えられるゲーム形式の問題集だった。
カミュはパソコンの電源を入れると,新しく貴鬼の為に小学2年生向きのパズルゲームの問題集作りを始めた。
 
その夜,カミュは夢を見た。
氷河が初めてカミュの所にやって来た日のことだ。
氷河はやんちゃな貴鬼よりもおとなしく,無口な少年だった。
「お前は何のために聖闘士になりたいんだ?」
カミュが尋ねると無口な少年は,
「1年前に…マーマの乗った船が沈没したんです。それで…聖闘士になっていつかマーマの船を引き揚げたいんです」
とカミュの目をまっすぐに見上げて言った。
「…そうか。だがそんな考えではもし聖闘士になったとしても死ぬかもしれないな」
「えっ」
死ぬ,と聞いて少年は少しびっくりした。
「いいか。聖闘士とは,アテナを守る聖闘士であると同時に職業戦士なのだ。戦うことを目的とした危険な職業だ。生半可な気持ちで戦っていてはいずれ足元をすくわれて死ぬ。生き残りたければ,常に頭の中は冷静でなければならない。ならば男は仕事に私情を挟むな。常にクールに与えられた仕事を確実に遂行しろ」
「はい」
氷河はカミュの言葉を何割くらい理解できたのかは分からなかったが,なんとかうなずいた。
夢はそこで覚めた。
 
こうして貴鬼の勉強を見に行く日は帰りにサナトリウムに立ち寄ってサガの話し相手になってやる生活が始まった。
カミュの生活はとても充実していた。
ただ氷河の身を案じる以外は,の話だが
 
 
 
ミロとアフロディーテは教皇の間の隣の部屋で聖域のお布施や上納金の集計をしていた。
そこへ教皇が入って来た。
「ミロ,アンドロメダ島のダイダロスからの入金はあったか」
大きな聖闘士の養成事業をしているダイダロスは本来ならば聖域に対してロイヤリティーを支払うことが義務付けられている。ダイダロスはその支払いも滞っているという。
ミロは首を振った。
「いえ,ここ6年はありませんよ」
「そうか。可能であれば集金できればよいのだがな。誰かに頼んで行かせようか」
ミロが声を上げた。
「確かダイダロスはカミュと友達のはずですよ。同業者ですから」
「ならばカミュに行かせる方がいいな。ヤツは仕事に私情をはさまぬ男。いざとなれば相手も仕留めることもできるであろうな」
その言葉を聞いて証票つづりの糊づけをしていたアフロディーテははじかれたように前を向いた。
違う,違う,彼はそんな人じゃない。確かに命令を受けたら確実に仕事をこなすだろう。だからといって彼が傷ついていないわけではない。顔や声に出さない分だけ,きっと傷つくだろう。
愛しい彼に絶対にそんな思いをさせたくはなかった。
アフロディーテは静かに言った。
「あの…私が行きましょうか。私がアンドロメダ島に行きます」
「無茶だ!」
ミロが言った。
「ダイダロスは白銀聖闘士だがその力は黄金聖闘士と互角だと聞く。女のお前じゃ無理だ」
「女の私じゃ無理?どうしてそんなことが分かるの」
確かにアフロディーテは黄金聖闘士の中では紅一点だ。
他の黄金聖闘士に比べて腕力も体力もないだろう。
しかし,それでも黄金聖闘士だから,白銀聖闘士とは何か力の差があるはずである。
「大丈夫よ。もしピンチになったらあなたが助けに来て」
と,アフロディーテはミロに微笑みかけた。
「よかろう。アフロディーテ,すぐにアンドロメダ島に向かってくれ」
教皇が間に入って言った。
「はい」
アフロディーテはその日の夕方にはエチオピアに向けて出発した。
 
あれから白羊宮にムウと貴鬼が戻って来た。
チベットに行っていた理由は教えてはくれなかったが,特に変わった様子はなかった。
それよりも聖域の様子自体があわただしかった。カミュはどうしても気になった。
「あっ,カミュ兄ちゃん」
「あれは何だ?」
日時計の下でボール遊びをしていた貴鬼少年に尋ねた。
「アフロディーテお姉ちゃんが教皇の命令でアンドロメダ島で養成所をしていた聖闘士の討伐に行ったんだ。それで島に残った候補生たちをみんな聖域で引き取ることになったらしいよ」
カミュはアンドロメダ島の聖闘士,と聞いて動揺した。
「討伐?アンドロメダ島の聖闘士?それはもしかしてダイダロスという名前の聖闘士ではないか?」
「おいらはよく知らないよ。もうすぐアフロディーテおねえちゃんが帰って来るから聞けばいいじゃん」
「貴鬼,夕食の支度を手伝ってください」
白羊宮からムウが降りてきて言った。
「はい,ムウ様」
貴鬼はボールを拾い上げてムウの後に付いた。
「ムウ」
「なんですか,カミュ」
「その…今回アンドロメダ島で討伐された白銀聖闘士と言うのは?」
「ああ。ケフェウス座のダイダロス先生と言う人だそうです」
「!!」
カミュは自分で自分にオーロラエクスキューションをかけたように凍りついた。
ダイダロスは数少ないカミュの友達だった。
その友達を愛しいアフロディーテが手にかけたのだろうか。
確認したくもあったが,怖いと思った。
カミュはふらふらと一人宝瓶宮に戻った。
気分を落ち着かせるためにめちゃくちゃにチェロを弾いた。
とりつかれたようにひきつづけた。
夜になってアフロディーテが宝瓶宮のインターホンを鳴らした。
「カミュ,私よ」
出たくなかった。
無視しようと考えた。
もし出てしまったらアフロディーテを疑ってしまいそうだった。
カミュは無言で受話器を置いてインターホンのスイッチを切った。
部屋を暗くして,再びチェロの弓を取った。
インターホンは鳴り続けたが,聞こえなくなった。
 
いつの間にか外で雨が降っていた。
ダイダロスの死を悼む涙雨だろうか。
魚座の黄金聖闘士の女性を愛した者には不幸が訪れる。その言い伝えは本当だったのであろうか。
しかしアフロディーテの魂に少しでも曇りがあれば気づかないはずなどなかった。
彼女はあんなにも真綿色の白バラのように清しい美しさにあふれていたのに。
何もできなかったカミュはやけくそのようにシェヘラザードの第4楽章の狂おしいバイオリン独奏を強引にチェロで弾いていた。
「…ッ!!」
突然,チェロのG線が弾けるように飛び,ちぎれた弦でカミュは左手の指を切った。
抑えた指から血が流れている。
その赤い色を見たときカミュははっとして我に返った。
遠くでインターホンが鳴っている。
「カミュ,開けろ,俺だ,シュラだ」
指を包帯で抑えると,カミュは玄関に走った。
ドアの向こう側でシュラがアフロディーテを抱えて立っていた。ミロもいる。
経緯はこうだ。
雨が降っているのにカミュの洗濯物が放ったらかしにしてあるのでおかしいなと思ってシュラは宝瓶宮にやって来た。
そこでアフロディーテが倒れていた。
倒れている,というより意識はあったがうずくまっていた。
昨夜からずっとそこにいたらしく,雨のせいで体が冷えていた。
シュラが何か尋ねてもアフロディーテが何も言わないので,カミュに事情を聞こうとしたのだ。
アフロディーテが倒れたことを聞きつけてミロが飛んで来た。そして抱かれているアフロディーテを見て,二度驚いた。
「カミュ,ごめんなさい…」
アフロディーテはうわごとのようにつぶやいた。
ミロは何かに気づいた。
「カミュ,アフロを悪く思うのはお門違いだぜ。アフロはお前の代わりにアンドロメダ島に行ったんだ」
カミュははっとした。
「どうしてそんなことを」
「…あなたを,あなたを傷つけたくなかったの。あなたにダイダロスを殺させたくはなかった…」
その告白を聞いてカミュは頭の中が真っ白になった。
なんということだ,アフロディーテはカミュに友人殺しの罪悪感を抱かせないために自分の手を汚してきたのだ。
「ほら,返すから」
シュラはアフロディーテをカミュの両腕に渡してきた。
カミュはアフロディーテの体を落とさないように受け取り運び,ソファーの上に寄りかからせた。
カミュは背中に視線を感じた。
ミロが怖い顔でにらんでいた。
「何で黙ってたんだ」
「…え」
「なんか悔しいよ。友達なのに隠し事されて」
「わるかった。そんなつもりじゃなかったんだ。周りにも迷惑をかけたくなかった」
「別に迷惑だなんて思ってねぇぞ」
ミロは言った。
「いいことじゃん。お前にもちゃんと彼女が出来てさ。ちゃんとそれくらい報告してくれよ。そこまでクールになるのも考えものだぜ」
「…」
「カミュ」
シュラは落ち着いた口調で言った。
「実は俺もお前とアフロディーテが交際を始めていたと今知って寝耳に水だったが,本当を言うと少し嬉しい」
ミロも驚いてシュラの目を見た。
 
シュラのしみじみとした目が今の気持ちを物語っていた。
「まるでアフロディーテが生まれつき疵物か祟り神みたいに扱いやがって」
と,シュラは疲れて眠っているアフロディーテの髪の毛を撫でながら言った。
「それじゃああのジンクスは」
「そんなマンガみたいな話あるわけないだろう。あんなもの,ただのこじつけか噂だよ」
シュラがきっぱり言った。
「え,そうなの?」
ミロも多少は気にしていたらしく目を丸くした。
「何だお前まで信じてたのか。まあまことしやかにささやかれている噂でも根拠は全くないものだ。もともと昔から魚座の黄金聖闘士は12人の中でも紅一点で美人と決まっている。ちやほやされまくって育つわけだから,わがままになって結婚後は相手の男が振り回されて苦労する,そういう話だ」
「…」
「さあ,そんな下らない噂はもう忘れるんだ」
シュラの声は温かかった。
 
結局カミュはアフロディーテと二人で残されてしまった。
眠っているアフロディーテは動かさずに自分も床に入る。
カミュが見た夢は,自分の幼いころの夢だった。
父と母と幼い弟とどこかに出かける夢だ。
家族の夢から覚めた時,カミュは嫌な汗をたくさんかいていた。
カミュはもともとはフランス出身だが,シベリアに長くいた。
その理由はカミュの不幸な少年時代にあった。
カミュの父親は三流楽団のバイオリン奏者で,酒癖が悪く,酔っ払っては妻子に暴力をふるったり罵声を浴びせたりした。そんな環境の中で育ったカミュは親の顔色ばかりを見る,子供らしくあることすら許されない子供時代を送った。彼が少年時代に記憶しているのは父親の怒号と病弱な母の泣き声だった。彼にとって家庭と言う者は決して安住の場所ではなく,戦場だった。
抵抗する力もなく,ただひたすら弟と一緒に気配を消して隠れているしかなかったのだ。
そんな嵐のような家庭だったので,カミュは数年の間に弟と母親を一度に亡くしてしまった。そうなると狭い家の中に自分と暴力ばかり振るう父親の二人だけになってしまう。
逃げ場はもうない。
当時8歳だったカミュにはできることなど限られていた。
カミュはある日,家を飛び出した。
その後自分の父親がどうなったかなど彼は知らない。
どうでもいいことだ。その後彼は奨学金制度のある聖闘士の候補生になった。訓練はつらかったが,今まで生きてきた自分の辛い境遇に比べれば肉体の辛さなどどうと言うことはなかった。何百人といた候補者のうち,たった一人残り,そして水瓶座の黄金聖衣を手に入れた。
彼は今日の今日まで自分の辛い過去をあまり思い出したり考えたりしないようにして生きてきた。
それでも,一人でいたりじっとしていると,そのときの辛さ,痛みを思い出してしまう。
父親に虐待された時の事,懸命に介護したにもかかわらず弟と母を失った時の事。
だからこそいつもふさぎこみがちで,冷静な性格を装っていなければ,辛い気持が表に出て立っていられなくなる。
だからカミュは自分のことを一切話さないクールな男になった。
しかし今,家族の夢を見てひどい気分になった。
落ち着け,終わった話じゃないか。
言い聞かせて辺りを見回すと,どこかで鳥の声がして,窓から光が差し込んでいた。
「カミュ,起きたの」
アフロディーテが入って来た。
「どうしたのよ,顔色がおかしいじゃない」
アフロディーテは本当に心配そうにカミュの手を触った。
「待ってて」
アフロディーテはカミュにホットカルピスを入れて持って来てくれた。
甘いカルピスを飲んで落ち着いてからカミュはようやく湿り気を帯びた喉から声を出した。
そしてアフロディーテに自分が見た夢の事,家族のことを話した。
アフロディーテはうつむいて,
「もっと早く話してくれればよかったのにね」
と笑った。
「なかなか人に話す勇気がなかったんだ。私は弱虫だな」
「ううん。そんなことないわ。貴方はすごいのよ。今まで何もかも一人で背負って,一人で耐えて。すごい。でも,もう我慢はやめて。私がいるもの。今まであなたが背負ってきた過去の嫌なことは二人で分ければ半分になるし,未来は二人なら嬉しい事が二倍になるわよ」
アフロディーテは精いっぱいカミュを励ましてくれようとした。
なんとなく,話して完全に消えたわけではないものの,少しは心の痛みが弱くなった気がした。
 
カミュがアフロディーテとサナトリウムにやって来るとデスマスクにはち合わせた。
「君も来ていたのか?」
とカミュは少し驚いた。
「ああ。俺やアフロにとってサガは大事な恩人なんだ」
とデスマスクが言った。
「そうだったのか」
するとサガが,
「いや,彼らこそ私の大切な恩人なのです。こうしてこまめにこっそりここに来て掃除や洗濯をしてくれたり食事を出してくれるのです」
と言い出した。
デスマスクはサガの体を起こして薬を飲ませ,アフロディーテはサガの衣類をアイロン掛けしていた。
カミュが何か話しかけようとするとアフロディーテはウインクしてカミュの口に指をあてて,
「また後でね」
とだけ言った。
カミュはあきらめてサガの座っている所に戻った。
サガは,まるでデスマスクとアフロディーテを自分の弟や妹を見るような目で優しくニコニコ見守っていた。
「彼らは本当によい子達です。…ねぇ,カミュ,私はもう余命幾許もないのですよ。もし私にいっちょうことあったら,この双子座の黄金聖衣をどうしても弟に引き継がせたいのです」
サガはつぶやくように言った。
「なんてこというんだ」
デスマスクが振り返って怒り出した。
「サガ,あんたはこの聖域に必要な男なんだ。絶対長生きしなくちゃだめだ」
デスマスクに体を揺さぶられ,
「ありがとう,貴方は私を必要としてくれているのですね,ありがとう」
と力なくほほえんだ。
 
季節はもう夏が訪れようとしている。
時計台の下で貴鬼を囲んで他の黄金聖闘士達が花火をして遊んでいた。
それを見下ろしながらカミュはシャカとビールを飲んでいた。
力を集中するために人前では目を閉じて生活しなければいけないシャカの体を支えて座らせ,代わりにビールの缶も開けてやった。
「しかし君は大した順応力だな。シベリアからここへ来て2カ月も経っていないのにすでに多くの人の心をつかんでいる」
シャカはカミュに感心しきっているようだ。
「君が来る前,私は君の前評判をとてもクールで非情な男だと聞いていた。だが,私は君は本当は決して永久凍土のような冷徹な男などではなく,シベリア海のように深い心を持っているのではないかと思うのだ。そうでなければだれも君に心を開かぬだろう。私には見えるのだ。君には優しい青い小宇宙がまとわれているのを」
カミュは気付いていなかったが,思えばここに住まう黄金聖闘士達は皆それなりにカミュを信頼し,心を開いてくれている。
その様子をシャカは黙って見ていたのだ。
「しかし,同時に君には別の小宇宙も見える。…今,君には誰か愛しい女性がいるのではないかね」
「…っ」
カミュはシャカの顔をまじまじと見た。
目は固く閉じられていて無表情だ。
「ふむ,答えたくないのであれば答えずともよい。ただ,まるでオーロラの幾重もの襞のように君の青い小宇宙に羽衣のようなピンクの小宇宙がぴったりと寄り添っているのが私には見えたのだ。少なくとも君はその女性のことを憎からず思っているだろう?ならばその感情を大切にするべきだ。…燃え盛る炎のような激しい恋など一生のうちで一瞬の若い間にしか経験できるものではないのだ。たとえそれが破滅やよくない結果に結びつこうとも突き進むしかない時もあると思う。花がやがて色あせるように若さも永遠ではないのだ」
カミュは黙ってシャカの言葉を聞いていた。
「しかし」
シャカは言葉を付け加えた。
「私は君に不幸になってほしくない。君が手をとってともに年月を過ごす女性が君が生のままに望んだ人であることを願う」
回りくどい話だが,この人になりに自分の幸せを願ってくれているのだとカミュは何となく気付き始めた。
 
夏に近付くにつれて,双魚宮のバラ園もいっそう美しく咲いていた。
薔薇の手入れをしているアフロディーテの後ろからそっとか細く長い指が伸びた。
「きゃっ」
いきなりアフロディーテは羽交い絞めのように抱きすくめられた。
ビーチサンダルをはいただけのアフロディーテの素足が少し地面より浮きあがった。
その手はカミュの手だった。
「びっくりしたわ」
と,アフロディーテは言っているものの,怒ってはいないし,むしろ嬉しそうだ。
「急にあらわれるんですもの。どうしたの?」
「別に。顔が見たくなって会いに来ただけだ」
手を放してカミュが言った。
アフロディーテは体をカミュの方に向けると,うつむきながら,
「なんだかドキドキする。ほんとびっくりしちゃった。なんだかあなたらしくない」
と言う。
「悪かったな」
カミュも自分でも自分らしくないと自覚していたのかうつむいた。
「ううん,いいの」
アフロディーテは慌ててカミュの顔に手を伸ばしてすぐにひっこめた。
「昨日,シャカと何を話していたの?ずっと一緒にいたみたいだけど」
「ああ,その事。恋を知らないでいるより失恋した方が幸せ,なんだそうだ」
「それ,あの人が言ったの?」
アフロディーテは愉快そうに笑った。
「あんなお坊さんみたいなストイックな人が恋愛を語るなんてちょっと浮かばないわね」
「いや,彼はなかなかユニークな男だよ。とても興味深いことを聞かせてくれた。若さゆえの失恋の経験は無駄にはならないと」
アフロディーテはひとしきり笑ってからもう一度カミュを見た。
「でも私は嫌。どんな事があっても失恋なんかしたくない。あなたを失って生きるくらいなら私は,自分の胸に白薔薇を突き立てるわ」
そう言ってカミュの首にしがみついた。
カミュはアフロディーテの上体を抱いて首に頬に泣きぼくろにキスをした。
アフロディーテは幸せそうに微笑んで目を閉じた。
今日のカミュは自分でもよく分からないし,驚くほどらしくない態度だった。
ただ,そうしたいと思った。
「…あなたが私のあなたへの気持ちと同じくらい私を愛してくれているなら,私は一生,貴方に従い,ついていくわ」
アフロディーテはカミュの耳に囁いた。
 
それから二人はごく普通の婚約者のようにカミュの車で出かけて行った。
少しずつ,二人で新しい生活を始めるためにそろえるものがあるのだ。
 
 
7月に入り,いよいよ猛暑の季節がやって来た。
多少の暑さ寒さも涼しい顔ができるカミュも,今月に入ってからの暑さは耐え難かった。
シベリアにいたころでは考えられない暑さだからだ。
カミュはムウに白羊宮に呼ばれた。
昼だと言うのに貴鬼もいる。
「あっ,カミュお兄ちゃん」
「今日は学校はないのか?」
「今日は終業式だったんですよ」
とムウが昼食のそうめんをゆでている。
「これ,見て下さい」
ムウが明らかに嬉しそうな顔でカミュに貴鬼の通知表を見せる。
「貴鬼の成績が格段に上がっているんです。これもあなたのおかげです。これからもよろしくお願いします」
といい,
「それからこれ」
と,封筒を渡した。
中を見ると1万円札が5枚も入っている。
「とんでもない,頂けない」
カミュは慌てた。
「いいえ,少ないですけどぜひ受け取って頂かないと」
ムウに頭を下げられカミュは困ってしまった。
結局封筒を受け取り,夏休みの宿題や学習も面倒見ることを約束させられてしまった。
「おひる,どうしますか?ご一緒しません?」
「そうだ,お兄ちゃん,食べてけよ」
しかしカミュは約束があるので,と断った。
宝瓶宮に帰ると,アフロディーテがキッチンに立っていた。
「お帰りなさい。お腹すいたでしょう」
おかえりなさい,と声をかけられてカミュはなんだか新鮮な気分だった。
「外は暑かったよ」
ただいま,と言う返事もむずがゆくてカミュはそんな返事をした。
テレビをつけるとふた昔前のサスペンスドラマをやっていた。
犯人らしき役者が崖に追い詰められている。そういえばサガの弟もこんなひとけのない海に置いて行かれたのだろうかとカミュはふと考えていた。
もちろんその弟は閉じ込めた兄をとても恨んでいることだろう。そしてそれ以上に兄もそのことをとても悔いている。だからこそ弟の為に心臓がつらくても生きて再会を願っているのだ。
そう考えていると,アフロディーテがテーブルの上に手際よく器を並べていた。
「ああ,ごめん。気付かなかった」
カミュは振り返ってテーブルまで歩いてきた。
「カミュって,ときどき考え事して周りのことが分からなくなってる時があるよね」
「そうか。悪いな」
「ううん。気にしてないわ。そういうときは声掛けるのはだめだってわかるから」
「ご協力感謝するよ」
カミュはおどけてから椅子に座った。
そういえばこの部屋も少しずつ様変わりをしていた。
カミュの所にアフロディーテが来るようになって二人でちょっとした家具や食器やスリッパなどを少しずつ新しいものと買い替えた。
殺風景だった独身男の部屋が,キッチュだがどことなくレトロで可愛らしい部屋に変わっていた。
カミュが今座っている竹製の,背もたれが猫の顔になった椅子もアテネのプラカ地区に最近できたアジア雑貨の店で二人で選んだものだ。
ふざけたデザインの割には座り心地がよく,アームレストも付いていてカミュが書き物をしたりパソコンをしたりするのにも適していた。
昭和時代の子供服の生地のようなテーブルクロスの上には白地に花柄の器に入った鶏肉入りのフォーが美味しそうな湯気を立てていた。
フォーの上にたくさん散らされた数種類のハーブはアフロディーテが心をこめて大切に育てたものだ。
夏には嬉しいあっさり味のすましスープに香りの高いハーブが入ったフォーを食べながら,カミュは自分は今もしかしたら幸せなんじゃないかと思えてきた。
仕事が安定し,恋人もいる。とてもぜいたくな環境ではないかと思えてきた。
 
 
翌週の月曜日,黄金聖闘士全員が教皇の間に呼び出された。
教皇は片手に封筒を持っていた。
「以前に日本でアテナを騙る者が青銅聖闘士を操り,この聖域を侮辱したことは話したな」
教皇は持っていた封筒をかざした。
「その者達からの果たし状ともとれる書状を受け取った。たかが青銅聖闘士,大した戦力ではないが,すでに派遣した白銀聖闘士がことごとく倒されたと言うこともある。聖域秩序を乱されても困るし,穢されても困る。騒ぎを大きくせぬよう守りを固めよ」
ミロはそれとなくカミュの方を見た。
カミュは無表情だったが,内心とても動揺しているだろう。
自分の目をかけた弟子の一人が敵として乗り込んでくるのだから。
 
 
その夜,カミュは教皇に提出する報告書を持ち教皇の間を訪れた。
しかし,教皇はおらず,警備の雑兵が教皇様はもうお休みになったと言った。
それでは,とカミュは教皇の執務室の机の上に書類だけを置こうとした。
帰ろうとした時,机の後ろの一か所の壁の色が違うことに気付いた。
そこだけ塗り替えたのか。いや違う,そこだけ壁の材質も違う。
普段のカミュならどうでも良かったが,今日は昼間の一軒もあってもしかしたらこの奥に隠し金庫でもあるんじゃないかと思って壁に触った。
張り子のような薄い板だ。
カミュは板を押してみた。
しかし何の反応もない。
しかしここだけ板が薄いということは絶対にこの後ろに何かあるのだ。
カミュは何度か壁を叩いた。
すると壁が揺れ,わずかな隙間ができた。
隙間に指を入れると,ドアが横方向に動いた。どうやらスライド式になっているらしい。
カミュはそのまま壁をスライドさせると,壁はドアのように開いた。
目の前に真っ黒な口が開いたような空間がある。
胸ポケットからシュアファイアーを取り出してスイッチを入れて中を照らすと,壁にブレーカーがあり,スイッチを押したとたん,暗闇が明るくなった。
コンクリートの壁に階段が続いている。
カミュは何を思ったか,スライドのドアを閉めると,階段を降りて行った。
階段を降りて,コンクリートで覆われた人一人分の通路をカミュは歩いて行った。
あまりにも長い上に先が見えなかったので,この先がどこに続いて行くのか心配になった。
ようやく反対側に1メートル四方の引き戸が見当たった。
カミュは引き戸を開けた。向こう側は真っ暗だ。
身をかがめて中に入ると,立て上がってブレーカーのスイッチを押した。
そこは,肌色のタイルに囲まれたトイレの個室だった。
「えっ?」
カミュはトイレを出ると,そこが病院の個室で,ベッドが置かれていて,見覚えのある部屋だった。
そこはサガの病室だった。
なんと教皇の間とサガの病室が一本の道で繋がっているのだ。
サガはトイレのドアからカミュがのぞいていることに気づかず,ベッドの上で新聞を読んでいた。
「一体どういうことなんだ」
さっきカミュが通ってきた道は一体何のために作られたのだろう。
これではサガが教皇の間に行っているという意味なのだろうか。
重い心臓病のサガがこんな通路を使ってまで教皇に拝謁に行っているとは考えられない。
もし行ったとしても誰かに連れて行ってもらえばいいし,こんな秘密の通路を使ってまで教皇の間に行くとは考えにくい。
つまりサガは何らかの目的があって秘密に教皇の間に行っているということになる。
あるいはその逆で教皇がサガに会うためにこの通路を通っているとでもいうのだろうか。
カミュは来た通路を戻り,教皇の間に戻ると,自分の宮に帰ってきた。
先ほどの大冒険の興奮が冷めやらずと言ったところで,カミュは本棚にあった地図を広げた。
聖域付近の地図である。
サナトリウムは聖域の隣町にある。
車でカミュが行くと大体10分はかかる。
しかし,この地図を見ると,教皇の間のすぐ裏側がサナトリウムだ。
つまり教皇の間の地下から一本道を作ればものの5分でサナトリウムへ到達する。
カミュの足で5分だから老齢の教皇や重病人のサガならもう少しかかるだろうが,歩けない距離ではないはずだ。
しかしその目的が分からない。
一体サガと教皇はどんな関係にあるのだろう。
ベッドに横になっても寝付けず,カミュはそのことをずっと考えていた。
本来ならば仕事にプライベートは持ち込めず,相手のことも詮索せず,与えられた任務だけをこなす,そんな男だった。
しかし,聖域の教皇はどう考えてもおかしな所がある。
本来アテナの補佐役と言う神官の身分でありながら,聖闘士の養成業をフランチャイズ化して版権料をとったり,教皇自ら結婚式や葬式の立会人をして礼金を稼いだりしている。
もちろんそのお陰で聖域は黒字を出し,カミュ達黄金聖闘士から雑兵に至る者すべての給料も十分支払われている。もちろん教皇自身の金使いに問題もない。
しかしどうしても気になる。
「…調べてみるか」
翌朝,カミュは書類の作成に必要だ,と言って教皇の間の書庫に入った。
帳簿があるはずだ。
資料室には前の聖戦の頃からの記録がすべて収められている。
カミュはその中ですばやく帳簿を見つけた。
それによると聖域が大きな黒字を出し始めたのはいまから17年前からで,17年前と言うとカミュも含めて童虎とアイオロスとサガを除く全員が黄金聖闘士になって初めて登庁したのもその頃だと思った。同時にサガが入院したのもその辺りからだ。
「サガの入院と何か関係があるのか?」
カミュは,サガと教皇の関連性をつかむ証拠があれば,と思った。
そうすれば謎は解けそうな気がする。
その頃,教皇の間の方から声がするので耳を傾ける。
「教皇,お車の準備ができました」
「うむ」
どうやら今日も結婚式の立会をするらしい。
間もなくして二人の会話は聞こえなくなった。
今,教皇の間には誰もいない。
カミュは持っていた本を元に戻すと,資料室を出て教皇の間の奥のカーテンを開け,教皇の私室に入った。
居間に入ると,応接セットがあったが,テーブルの上に湯のみがあり,冷めかけた湯が入っていて,半分減っていた。
ゴミ箱の中には錠剤を入れていた包み紙が捨てられている。
別におかしなことはない。
教皇は前の聖戦を生き延びていたらしいからかなりの高齢なのだから,薬の一つや二つ飲むだろう。
しかしこの部屋から来る不自然さはそう言ったことではない。
まるで映画のセットの様に生活感がないのだ。
念の為,奥の寝室も覗いてみた。
まるでその部屋は綺麗に片付いていたが,あまりにも片付いていて,ここ10年くらい人が使っている様子がない。
ベッドの上のシーツは不自然なくらいに整い過ぎている。
まるで誰も使ってないようだった。
そのまた奥の小部屋は衣装ばかりを置いていて,いくつもの法衣がかかっていた。
用途に応じて使い分けているのだろう。
その中に結婚式などに使う真っ白な法衣があったのだが,その中に襟元に青い長い髪の毛が付いていることに気づいた。
カミュは髪の毛を手にとった。
一本の長さがカミュの背丈近くある。
カミュはこのような長い髪の人間がいるだろうかと考えたが,一人だけいた。
サガである。
やはりサガと教皇は会っていたのだ。
他に調べられるものはないだろうかとカミュが手元のシュアファイアを衣装ダンスに向けると,法衣の中にたたまれたパジャマと紳士もののVネックの卵色のカーディガンを見つけた。
パジャマは白地に水色の縦じまが入った半袖開襟タイプの何の変哲もないパジャマで取るに足らないものだったが,卵色のカーディガンは間違いなくいつもサガがパジャマの上から羽織っていたものである。
カミュは頭にカウンターパンチを食らった衝撃を受けた。
ここにサガの着ていたパジャマとカーディガンがあるということ,法衣にサガらしき髪の毛が付いているということから考えられる結論は一つしかなかった。
つまり,サガが教皇で,教皇がサガなのだ。
サガは17年前にサナトリウムに入り,そこから教皇の間を行き来していたのだ。
17年前から教皇が商業主義になったのも納得がいく。
サガは若いころ教皇の補佐として働いていた頃から経営面ではとても尽力していたと聞く。
そんなサガが教皇になれば多少は商業主義に傾くだろう。
 
しかし,それでは本当の教皇はどこにいるのだ。
2-1は1であって0にはならない。
どこかに本当の教皇がいるはずなのだ。
しかし残念ながらそれを知る手がりがない。
カミュはしばらく考えていたが,やはり心配だがサガ本人に聞くのが一番だろうと思った。
 
カミュはその二日後,教皇に出す書類を持ってサナトリウムに向かった。
サガはパジャマの上からやはりあのカーディガンを羽織っていて,経済誌を読んでいた。
「カミュ君,来てくれたのですか」
「ええ。貴方に提出する書類を持って来たんです」
カミュはサガのベッドの上に書類を載せた。
「カミュ君,これは教皇に提出する書類ではないのですか」
「いいえ。間違ってはいません。いつも通り赤ペンと計算機片手にチェックしたらどうです」
「何を言っているのですか」
サガは平常通りの人の良さそうな微笑みを見せたが,明らかに動揺している。
「…どうしてあなたが教皇になったのかと聞きたいのです」
カミュはゆっくりとした口調で言った。
カミュの強い視線を受けてサガは,うつむいてしまった。
さすがに病人にはきつい言葉はふさわしくないと改め,,カミュは語気を緩めた。
「私は本当のことが知りたいのです」
サガはタオルをにぎった。
「分かりました。話します。しかしこれだけは言わせてほしいのです。カミュ君,私は君達をだますつもりはなかったのです。だけどその時の私には他に選択肢がなかった」
サガはそう言ってカミュにイスに座るように言った。
「あれは今から17年前のことです。私はまだ若かったー」
サガは遠くを見る目で話し始めた。
「私達の先代の教皇は牡羊座の黄金聖闘士だった方で,前の聖戦を生き抜いてこられ,それはもうご立派な人格者でした。それでも教皇様はそのときすでにご高齢でいらしたので黄金聖闘士の中でも年長者の私達,双子座の私と,射手座のアイオロスが教皇の補佐をさせていただいておりました。主におもてだった教皇の仕事はアイオロスが,お金を管理する経理の仕事は私が分担しておりました。いまから17年前,アテナがこの地に降臨されました。アテナのお世話は私達がさせて頂いていました。といってもアイオロスは細かい仕事は苦手でしたので,おむつを替えたりミルクを与えたりのアテナのお世話はほとんど私がしていたのですよ。そんな折に,教皇が私とアイオロスをお呼びになりました。教皇はおっしゃいました。もし自分の身に何かあれば,次の教皇を選出せねばならない,と。そしてその次期教皇を私ではなく,アイオロスを,とのことでした。その時は異存はありませんでした。あの人は兄貴肌で,熱血漢で友達も多く,多くの人に慕われていました。確かに教皇になるにはとてもふさわしい人でありました。ですが」
サガは一度言葉を切った。
一度にたくさんしゃべったので心臓が苦しくなったらしい。
「大丈夫か?」
カミュが尋ねると,サガは,
「ありがとう。…とにかくそれでも私は自信をもってその仕事を続けていました。…おかげでこの聖域の経営状態はうまく言っていたのです。それなのに…それなのに」
サガはだんだん苦しそうだ。
「無理をするな」
「…それなのに…あの老いぼれは…」
呼吸と一緒に言葉遣いまで荒くなっているのがカミュにも見て取れた。
カミュは,思わずナースコールのボタンを押そうと手を伸ばした。
その時,とんでもない事が起こった。
なんとサガの髪の毛の色が鮮やかなスカイブルーから雲のような灰色に変わっていく。
晴天から曇天へとサガの髪の色は変貌を遂げた。
「ふふふ…」
サガは肩で息をしながら笑っていたが,だんだん荒い呼吸が収まっていく。
完全にサガの呼吸が落ち着いた時,その口から洩れた声はまるで地獄からの声のようだった。
「ふふふ…私が今までどんな思いで仕事を続けていたのか知りもしないでさんざんコケにしてくれたなァ!!」
完全に顔を上げたサガの顔は別人だった。
穏やかな天使のようだったサガの顔が,まるで恐ろしい悪魔へと変貌した。
カミュは危険を感じ,身構えた。
そのとき,
「どいてろ!!」
と声がして,カミュは肩を掴まれ,背後に押された。
カミュの前に立っていたのは,小柄なデスマスクの背中だった。
デスマスクは暴れるサガの頭を必死に抑えつけた。
そしてなぜかアフロディーテも一緒にいて,アフロディーテは戸棚から錠剤を出すとデスマスクに渡した。
デスマスクは無理やりその錠剤を水と一緒に飲ませた。
サガは暴れたまま息を荒くしていたが,やがてこん睡状態に陥った。
髪の毛も元の青色になった。
アフロディーテはカミュに駆け寄った。
「怪我はない?」
「平気だ。それよりもこれは一体どういうことなんだ」
カミュがアフロディーテの方を向いた。
アフロディーテは困った顔をしてうつむいた。
「…あ,いや,君を責めたんじゃない。あまりのことに驚いているんだ」
「薬の副作用だよ」
デスマスクがアフロディーテの代わりに教えてくれた。
 
「発作を止める強い薬を飲むと人格障害の副作用があるらしい。サガがここに隔離されたのもそういう理由からだ。それでもサガは病院を抜け出して教皇やらなきゃならなかったんだ」
「…その,君達はサガが教皇をやっていたと知っていたのか?」
「知っているのは俺とアフロだけだ。シュラは知らない」
デスマスクは言った。
それではそれ以外の黄金聖闘士には教皇の存在がほとんどばれていないということになるが,一体どのタイミングで本物とサガが入れ替わったのだろう。
その答えはベッドにいるサガが目を覚ましてしゃべりだした。
「私のやったことは許されることではありません。しかし他に事態を打開する方法はなかったのです」
「おい,無理すんな。寝てろって」
「ありがとう,デスマスク。今はもう大丈夫です」
サガは言葉を続けた。
「私にはどうしても自分の心臓病を治療するお金が必要でした。苦しくてもいい,完治しなくてもいいから,これ以上病状が悪化しなければどんなに治療費がかかってもいいし,どんな辛い治療にも耐えるつもりです。どうしても私は生き延びねばならなかった。一日でも生き延びて弟のカノンに,カノンに会って詫びて楽をさせてやりたいのです。その為だったら私はどんな犠牲を払ってもいいと思いました。そんなときに,私は心臓移植の話を聞きました。私のこの弱った心臓と誰かの健康な心臓を入れ替えれば,私は元気になるのです。あの恐ろしい薬の力を借りなくても発作は起こらないし,息苦しくなりません。走ったり運動もできますし,食事や旅行も楽しめるし,黄金聖衣を着けて戦うこともできるでしょう。しかし手術や諸費用には莫大な金額がかかります。その為には私は必死に働いて費用を稼がなくてはなりませんでした。聖域の経理の仕事をこなし,アテナの世話もしていました。当然,体が持つはずがありません。発作や動悸がひどくなり仕事中に気を失って入院することもしばしばでした。そんなときに偶然イギリスに,一時的に発作を止める即効性の薬があると聞き,私はそれを個人輸入で取り寄せました。それがこの悪魔の薬なのです。これを飲むと確かに発作は止まりますし,心臓の負担が一時的に軽減されます。しかし,恐ろしい副作用もはらんでいました。私ではない別の嫌悪すべき憎悪の人格が現れるのです」
サガはパジャマの胸ポケットから錠剤の束を取り出してカミュに見せた。
教皇の間の居間のゴミ箱に捨ててあった入れ物と同じものだ。
「私の恐ろしい別人格は私をそそのかしました。教皇はバカだ。お前でなくてアイオロスを選ぶなんてとんでもない話だ。アイオロスは聖闘士としての能力は優れているかもしれないが,幼い時から聖闘士としての修業しかしていなかったので,経済のことなど何も知らない。どんぶり勘定しかできないはずだ。
そんなヤツが教皇になったところで聖域の経営はめちゃくちゃになる。いいか,お前が教皇になるということは聖域と言う一集団を守ることになるんだ。力だけではこれからの世の中やっていけない。お前の経営手腕が必要なんだよ,と。しかし私はその時はまだ,アイオロスを退けて自分が教皇になりたいとは思っていませんでした。すると悪の私はこんなことを言いました。教皇になれば,聖域の大金を右から左へ移すのも自由だ。お前の移植手術の金などすぐに確保できる,と。その時の私は,ああ,なんという情けない。そそのかされるままに命乞いをしたのです。私はスターヒルで星読みをしている教皇のもとに行きました。そこで私はなぜ自分が教皇に選んでいただけなかったのかと尋ねました。すると,教皇はお前は体が弱く,とてもこれから先激務に耐えられそうにもないし,無理がたたれば長く生きられそうにはないから,教皇には選ぶことはできなかった,と言いました。その話を聞いていると,別人格の私が再び話しかけてきたのです。それ見ろ,なんて見苦しい言い訳だ。こいつは何にも分かっちゃいない,そうだいい方法がある。お前がこいつを殺して教皇に入れ替わるんだ。そうすれば金は手に入るのだ。さぁ,やれ,一思いだ。その直後,私は意識を失ってしまいました。次に目覚めた時,私の足元で教皇が倒れていました。もう,息はしていませんでした。どうやら別人格の私が教皇を突き飛ばして岩場で頭をぶつけさせたのです。教皇の服と私の髪の毛がもみくちゃになっていたことからかなりもみ合ったようです。何も知らない見ていないとはいえ私の体が殺したのですから,私が殺したのも同然です。理由はどうあれ,殺すつもりはなかったとしても私は教皇を殺してしまいました。そのとき,私は赤子のアテナの泣き声を聞いてハッとしたのです。あわてて戻り,アテナにミルクをあげました。その時,私に暗い考えが浮かびました。確かに私達はアテナの聖闘士です。しかし,それ以前に一人の人間です。アテナのために命を賭して戦うにしても,私はアテナの育児ですっかりノイローゼになっていたのです。いっそアテナさえいなくなれば次の降臨までこのような苦労をしなくて済むのです。幸いアテナはまだ赤子でしたから,私が少し首をひねれば簡単に殺せるでしょう。そんな風に思って我を忘れてアテナの首をひねりきろうとしたその時,アイオロスが現れて止めに来たのです。我に帰った私は,どうしてアテナを殺そうとしたかを正直アイオロスに話しました。しかしアイオロスの理解は得られませんでした。そればかりか,私の行為は聖闘士としてあるまじき行為だと罵りました。その時,私の中で何かが爆発しました。これまで,私は聖域の為に身を粉にして働いてきました。アテナの為に他の聖闘士達の為に働いてきました。聖域や付近の村が金銭的に豊かになったのは誰のおかげなのでしょう。私が経営の手綱をしっかりと握っていたからに決まっています。それなのにこの私をののしるとはなんという無礼千万だと思いました。しかし,残念なことにアイオロスはあのアイオリアの兄です。あのような剛の者に病弱な私が拳を向けたところで勝てる希望は万に一つもありませんでした。そこで私は卑劣な手段に出ました。『アイオロスが私を殺そうとした』と大騒ぎしたのです。当然雑兵達がアイオロスを取り押さえに来ました。アイオロスはアテナを連れて逃げました。私はアイオロスの騒ぎに乗じて教皇の死体を片付け,自分が教皇の服を着こみました。ああ,そのときはそうするしかなかったのです。他に考えが浮かびませんでした。しかしもし誰かが私を見破ったのなら私は自分の罪の重さを認め,自首しようと思いました。しかしなぜかそうはなりませんでした。アイオロスの討伐に出たシュラが私を教皇と呼びました。そうです,誰も私のことを教皇だと思い,サガだなんて思わなかったのです。そうなると私も大胆になって来てこのまま教皇のふりをしてやろうと思う気になってしまいました。そこで私は教皇とサガという二つの生活を始めました。それでもこの17年間,私は必死に働き続けたのですよ。薬の副作用で現れる別人格と戦いながら近隣の若者たちを聖域で雇用してやったり,私自身,結婚式や葬儀に立ち会ったりしています。一番の収入源はこれまで聖域からの勅任でしかできなかった聖闘士の養成を,フランチャイズ形式で聖闘士の養成学校のマニュアルを作ってそこから上納されるロイヤリティーとしたことで収入をあげました。すべてが順調に行っていました。しかし,神は私を許したわけではなかったのです。17年前に行方知れずになったアイオロスの黄金聖衣が姿を現し,アテナも再び現れたのです」
「するとやはり青銅聖闘士とともにいる少女がアテナと言うことで間違いないのか」
カミュが確認すると,
「そうです。その通りなのです。彼女が射手座の黄金聖衣とともにあること,彼女の加護を受けた青銅聖闘士がことごとく白銀聖闘士をなぎ払ったことから考えるに彼女が本物のアテナでしょう。そしてそのアテナが凱旋してくることの意味が分かりますか?粛清です。当然アテナを守る者としての道理に反しているこの私はまず殺されるでしょう」
「しかし事情を話せば温情が与えられるかもしれない」
カミュがサガに声を掛けた。
「いいえ,そんなに甘いことにはなりません。アテナはお許しにはならないでしょう」
「お願い,サガを助けてあげて」
アフロディーテがカミュに懇願した。「いいえ,私とて覚悟はできております。この17年間ドナーを待ち続けてきましたが,なかなか私に適合する心臓が見つかりません。この病身ももとよりいつまで持つか分からぬもの。ただ,気がかりは弟と,私亡き後,この聖域をきちんと引き継いでくれる者を指名することです。つまり黄金聖闘士の中から次期教皇を私が指名しなくてはならない。カミュ君」
サガはカミュに声をかけた。
「君を次期教皇に任命します。よろしいですね」
カミュはいつものクールな表情が一瞬崩れた。
「しかし他にも適任者がいるはずだろう」
「いえ,もうここには君しか適任者がいないのですよ。君が来るまでは最も適任者と言えば牡羊座のムウでしたが,彼はどうやら私を疑い始めているようです。そしてとんでもないことに,有償とはいえ,件の青銅聖闘士達の青銅聖衣を修復してやっていたことが白銀聖闘士の報告で分かりました」
そういえば以前ムウが携帯電話で金の話をした後チベットに一時的に向かったのもその為だったのだ。
「ですから君が今回シベリアから聖域に帰って来たのは神のおぼしめしだと考えたのです。次の教皇を指名するには今しかない,と。何卒君にお願いしたい」
「…一つだけ質問させてくれ。なぜ私なんだ」
「おや,自覚がないのですか。簡単ですよ。君はあらゆる人と友達になっていますね。君が望まなくても君が自分のことを話さなくとも皆が君に話しかけたり友達になろうとしていますね。私はそんな君の姿をじっと見ていたのですよ」
カミュは壁のデスマスクを見た。
「俺は自分の詳しい素姓を話したのはお前が初めてだ」
とぽつりと言った。
正直カミュはなんと言っていいか困ってしまった。
できることならこれを回避したい。そんな重い物を背負うことなどできない。
カミュは少し憔悴した顔で,
「…少し考えさせてくれ」
と,その日は帰らせてもらうことにした。
 
頭がくらくらするとつぶやくカミュの手を握ったアフロディーテが,
「ごめんなさい」
と謝った。
「君が謝るべきことじゃない」
カミュは空を見上げた。
カミュはアフロディーテにぽつりと尋ねた。
「君に聞きたいことがある。これからの話だ。
今回の件で落ち着いたら,私は養子を一人迎えたいと思っているんだ。気立てがよくて賢い子供だよ」
カミュは何かを決意したようだ。
「その子供と言うのは,氷河のことだ。氷河が来たらなんとか私が説得してみる。今の私の収入なら,十分氷河を養えるし,大学までやれると思う。…ただ,こう言ったことは私一人で決められることではない。氷河が私の養子になるということは君の養子でもあるということだからな」
「大丈夫よ。二人より三人の方が心丈夫だわ」
アフロディーテはにこにことして答えた。
「ありがとう」
カミュはほっとしたようにアフロディーテの肩を抱いた。
夜が明けた。
少しほっとしたとは言うもののおそらくカミュは昨夜は一睡もできなかったに違いない。
突然知らされたサガの真実だけでも驚きなのにそのサガの荷物を丸投げされた気分だった。
そうこうしているうちに件の青銅聖闘士の一団がやって来るだろう。そしてその中には氷河がいる。
カミュは今,なぜ自分だけがこんなに辛い思いをしなければいけないのだろうと腹を立てているに違いない。
なぜ自分だけが,とその事ばかりを恨んでいるかもしれない。
 
ところが,朝,宝瓶宮から出てきたカミュの表情はいつもと変わらないクールそのものだ。
普段通りに仕事をこなし,貴鬼の夏休みの宿題を手伝い,しっかり食事もとった。
どうやら彼には何か考えがあるらしい。
 
夜になってカミュは一人,教皇の間へ行った。
もうすぐアテナとともに青銅聖闘士がやって来るかもしれないと言うのにサガは帳簿を見ていた。
カミュが来たことを知ると,サガは重い冠を外して顔を出した。
「カミュ君,来てくれたのですね。どうですか,考えてくれましたか」
「…条件がある」
「聞きましょう」
「まず,確か貴方の得意技は敵を異次元移動させる能力だったな。それを使って青銅聖闘士達がこの十二宮を突破しようとしたら,3つ目の貴方の宮で私の弟子の氷河一人を天秤宮に転送してほしい。キグナスの聖衣を着ていて一人だけ白人だから分かるはずだ。彼一人だけでいい,転送してくれ。その後のことは私がやる。貴方は感知しなくていい」
感知しなくていい,というカミュだったが,サガには何となく意味が分かった。
カミュもまた,断腸の思いで身内の不祥事を自分の手で何とかしようと思っているのだ。
その事に慰めの言葉や同意の言葉をかけるのは決意を固めた男のプライドを傷つけてしまう。だからサガは何も言わなかった。自分は頼まれたことをやればいいのだ。
「分かりました。君のおっしゃる通りにしましょう。それともう一つは?」
普段はどんな発言でもクールに話すカミュだったが,深呼吸して,言った。
「私とアフロディーテとの結婚を認めてほしい」
「え…」
いつも優しい笑みをたたえたサガの目がまるでオーロラエクスキューションを食らったように固まった。
黄金聖闘士の中でも眉目秀麗と呼ばれたカミュだが,まじめ一辺倒で浮いた話の一つもない男だった。
「カミュ君…君のことはかねがねアフロディーテから聞いていましたが,本当の事だったのですね。私は君に思いを寄せる若い娘の空想の話だと思っていたんです。しかし君はもっと慎重派だったはず。こんなに早く結婚を決めてしまっていいんですか」
「客観的な時間は何の意味も持たないと最近私は気づいた。一日のうちで私を待つ時間が彼女にとって十年,二十年にも感じるならばそれは決して短い時間ではない」 
サガはカミュの流氷のように透き通った目を見た。
「…もし認めて頂けないのであれば昨日のお話はなかったことにしたい。そしてあなたのやったことを他の黄金聖闘士達にあらいざらい話すだろう」
「…それは脅しですか?」
「脅しではない。正当な対価だと思うが」
カミュの発声は明らかに詐欺とか脅しとか言った負のものではなく,働いたら給料をもらうように力を貸すにはきちんとお礼を頂きたい,と言う意思が感じられた。
「…分かりました。約束します」
 
 
カミュの電話を受けてアフロディーテが飛んで来た。
水色の長い髪を揺らせ,白いほほを真っ赤にしてアフロディーテが走りながら入って来た。
「ああ,カミュ,本当なの?私達本当に一緒になるの?」
アフロディーテはカミュの体にしがみついた。
「…なるほどこれは本当ですね」
サガはうなずいた。
「私も真偽のほどは気になっていたのですが,真実ならば何の問題もありません」
カミュのほほに手を伸ばしてうれし涙をこぼすアフロディーテの姿を見てサガが言った。
「さあ,今のうちに式を挙げてしまいましょうか」
サガはアフロディーテの手を引いて二人をアテナ神殿の祭壇へ連れて行った。

(中巻・完)
続きを読む