その日の早朝,青銅聖闘士たち一行を乗せた自家用ジェットが聖域の闘技場に着陸した。
飛行機からは,城戸沙織と,星矢,氷河,紫龍,瞬が降りて来た。
「ここが聖域かぁ。すごい所だな」
星矢はこれから先のことを深く考えていないのか,まるで観光気分でデジカメであちこちを撮影した。
ただ一人,氷河だけは浮かない顔をしていた。
闘技場のすぐ近くに聖域の駐車場があるのだが,その中に見覚えのある真っ白いセルシオがとまっていたのだ。
氷河がシベリアで修業をしていた頃,カミュがいつもこの車で学校の送り迎えをしてくれ,買い物にもこの車でよく出かけたものだった。
仮にカミュの車ならフロントガラスに同行二人と書かれた交通安全の身代り人形と後部ガラスに交通安全祈願の成田山のステッカーが貼ってあるはずだ。
それは氷河の目にしっかりと入ってきた。
セルシオのフロントガラスの端にぶら下がるピンク色の着物を着て,同行二人と書かれた傘を持つ人形が吸盤でぶら下がっていた。
わが師カミュはやはりここ聖域にいるのだ。
氷河は驚いた。
もしかしてたらカミュに再会できるかもしれない。
もしできることなら会って話したい。
しかし,さらに氷河はルームミラーに気が付いた。
水色のプリザーブドフラワーのバラが,ルームミラーに飾られている。かつて氷河がカミュの車に乗っていた頃,こんな飾りはなかった。
ーわが師カミュの車に薔薇?これはどこかで買ってきたものなのか,プレゼントなのか。
もしプレゼントだとしたらだれからもらったものなのだろう。
氷河の知らないカミュの生活を表しているようで氷河はそのバラのリースがどうしても気になってしまった。
 
「氷河,どうしたの」
ある車の前で立ち止まったまま動かない氷河を見て瞬が心配そうに言った。
「…いや,なんでもない」
氷河はかすれた声を出した。
ある種の不安を抱いて氷河は先を行く一同に付いて行った。
 
飛行機を降りた一同にひょこひょことサングラスをかけてトレンチコートを着た見るからに怪しげな男が現れた。
「お待ちしておりました。教皇様がお待ちかねです」
と案内してくれるそうだ。
「案内してくれるそうじゃねぇか。親切なところじゃん」
星矢はにこにことした。
すると氷河は星矢の袖を引っ張る。
「バカ,見るからに怪しいだろ。今日はそんなに日差しも強くないのにサングラスなぞかけているし,この真夏にコートを着ているのも怪しい。警戒するんだ」
瞬も紫龍も氷河の言う通りだと思った。
「さぁ,ここです」
案内人は階段の下に立ち止った。
「この上が,十二宮のうちの第一の宮白羊宮です」
「十二宮の第一の宮って?」
聞きなれない言葉に瞬が聞きかえした。
すると案内人はもっともらしく,
「教皇の間に行くには,この十二宮全てを突破しなくてはいけません。そしてそれらの宮殿にはそれぞれの星を守護する黄金聖闘士がおります。突破するにはそれぞれの黄金聖闘士を倒さなくてはいけません。そしてみごとこの十二宮を突破した者など,神話の時代より一人とて存在しないのです」
その言葉に息を飲む氷河と紫龍と瞬。
「なーんだ。じゃあ俺達がその記念すべき第一号になるわけだな」
星矢は陽気に言った。
その笑顔は真夏の太陽のように屈託がない。
星矢の顔を見て,他の一同も少し気分がやわらいだ。
「行こうよ,みんな」
星矢が階段を指さして上った。
「待て」
最後尾を歩いていた瞬の後ろからささやく声がした。
「残念だが,お前達をここから先に進ませることはできない」
「ハァ?」
星矢は驚いた。
「このサジッタのトレミーがな!」
案内人がサングラスとコートを外した。
聖衣を着ている。
「なんなだお前」
「くらえ,ファントムアロー!!」
案内人と偽った矢座の白銀聖闘士トレミーが拳を突き出した。
無数の矢が星矢達に向かってくる。
「よけろ,みんな!!」
一同が矢を避けようとすると,紫龍が
「んちょっと待て。これは幻覚のようだぞ」
と気付いた。
「あっ,本当だ」
確かに無数の矢が飛んできているが,当たる感触はない。
「この野郎,よくもハッタリかましたな,ペガサス流星拳!!」
星矢のペガサス流星拳を受け,トレミーは階段下の岩場まで吹っ飛んだ。
「口ほどにもないやつだったなぁ」
「クックック,それはどうかな」
星矢の流星拳で頭を割られたトレミーがにやにやした。
同時に,
「星矢!」
と,瞬の声がした。
驚いて振り返ると,沙織が金の矢を胸に受けて倒れていた。
「あっ,沙織さん」
星矢が慌てて沙織に刺さった金の矢を引き抜こうとする。
「ククッ,その矢は力任せに抜くことはできん。教皇でなければな…まぁせいぜいがんばるんだな。たわば!!」
トレミーは断末魔の叫びを上げ,息絶えてしまった。
「どっちにしてもこの十二宮を突破しなければいけない,そうしなければ教皇にも会えないし沙織さんを救えない」
と瞬。
「だったら行くしかねぇだろ」
星矢が拳を握り締めて第一の宮,白羊宮の階段を駆け上がった。
星矢達はさっそく聖衣を着込むと、白羊宮への階段を登った。
「ようこそ、白羊宮へ」
さわやかな声がして、現れたのは黄金聖衣を着て颯爽と立つムウの姿だった。
「あ、まさかあんたはジャミールのムウ!?」
星矢達はムウとは面識があったが、黄金聖闘士だということは知らなかった。
しかし今は驚いている暇はない。
「ムウ、助けてくれ。実は沙織さんが金の矢にいぬかれて早く教皇の間に行かないと危ないんだ。通してくれ」
星矢は早口で用件をしゃべった。しかし星矢のあせりと反比例するようにムウの発声はゆったりとしていた。
「だったら、なおのこと貴方達を通すわけには行きませんよ」
「なんだと!?それじゃあ教皇に加担するというのか?」
星矢は怒り出した。当然だろう。
「じゃあ力付くでも通らせてもらうぜッ」
星矢がペガサス流星拳を放った。しかしムウには届かず、ムウが放った弱いテレキネシスに吹っ飛ばされた。
「あっ、星矢、しっかりして」
瞬が星矢を抱き起こした。
「なんてことをするんだ!あんたそれでも老師の仲間か!?」
紫龍が憤慨してムウに向かった。
するとムウが指を突き出して紫龍の聖衣の盾に触れた。
するとなんと言うことか、絶対的な防御をほこるドラゴンの盾があっけなく粉ごなになった。
「これは一体どういう話だ?」
紫龍も完全に腰が抜けてしまっている。
ムウは宮殿の奥に向かって、
「貴鬼」
とよびつけた。
「はい」
「この子達の聖衣を見てやって下さい」
貴鬼は星矢達の体を覆う聖衣を調べた。
「こりゃ駄目です、ムウ様」
と貴鬼が残念そうな声を出した。
「聖衣があちこち細かい傷だらけです!」
「やはりそうですか。なら修復をしなくてはいけませんね。見た目は完全に形を保っていても実は中身は傷だらけなんです。そんな聖衣を着て黄金聖闘士に挑むなんて貴方達はイカダでタンカーに突っ込むようなものですよ!」
ムウに言われて全員がやっとその意味を理解した。
「…分かった、ありがとう、ムウ」
星矢が礼を言った。
「ふむ、普段ならすぐに小切手を切ってもらうのですが、今日は肝心の金主が動けないようなので、後払いで構わないです。…まッ、この程度の損傷なら1体33万円…」
ムウは見積もりをとると、聖衣を台車に積んだ。
「貴鬼,聖衣を修理している間,星矢達にお茶の用意をして下さい。お茶は入れられますね」
「はい,ムウさま。ところで今日はカミュお兄ちゃんは来ないんですか?」
するとムウはとても複雑な表情をして,
「今日は彼は来ませんよ」
と短く言って背を向けていなくなった。
氷河はわが師の名前を聞き逃すはずはない。
貴鬼が星矢達一同にアイスティーとスコーンを運んできた。
「ムウ様がどうぞって」
貴鬼の入れてくれたアイスティーはごくごく普通のありきたりなペットボトルで売られているようなものだったが,飲み物を体に入れることで,星矢達も幾分か落ち着きを取り戻してきた。
氷河は貴鬼に,
「お前はカミュを知っているのか?」
と聞いた。
「うん,知ってるよ。勉強教えてくれるし,楽器も弾いてくれるんだ。何でも弾いてくれるんだよ」
貴鬼は嬉しそうに言った。
その表情から,氷河は,かつて自分にそうしたように貴鬼の面倒を見ていることに気付いた。
「それじゃあ貴鬼はしょっちゅうカミュと会っているんだな」
「そうだよ。夏休みの宿題も手伝ってもらってる。この先のずーっと上にある宝瓶宮に住んでるよ」
ここの住人の貴鬼はしょっちゅうカミュと顔を合わせているだろうし,ここ最近のカミュの動向もよく知っているのだろう。
氷河はなんだか複雑な気分だ。
小一時間してムウが台車を押し戻ってきた。
さすが聖衣の修復職人、見事に輝きをおびた聖衣がならんでいる。
大喜びで聖衣を着る星矢達の背中に向かってムウが、
「聖衣を完璧に修復したと言ってもそれを決して過信してはいけません」
「貴方達がこれから挑む戦いは今までで最も過酷なものとなるでしょう」
「…ああ」
「どうかそのことを忘れないで」
ムウに送り出されて星矢達はいよいよ十二宮に向けて出発した。
 
 
 その頃,カミュはまだベッドで眠っていた。ただ,いつもと違うのは,そこがカミュの宝瓶宮のベッドではなく,双魚宮のベッドだった。
カミュは目を覚ますと,うつぶせになっていた体を起こした。
隣で眠るアフロディーテの寝顔を見てからベッドに腰かけた。
「―おきたの?」
背中からアフロディーテの声がした。
「起こしてしまったか?」
カミュはベッド横の腕時計を見た。
「もう朝だな。そろそろ行かなければ」
「待って。どこにも行かないで。ここにいて」
アフロディーテがカミュの腕をつかんだ。
カミュはアフロディーテの体を押し倒し,もう一度,髪に,泣きぼくろに,首に,唇にキスをした。アフロディーテもカミュの首筋に何度もキスを繰り返す。
突然,カミュが頭をもたげた。
「どうしたの?」
「…氷河の小宇宙だ。もう聖域に来ているのか」
カミュは飛び起きるとベッドから降りて水瓶座の聖衣をまとった。
「もう私は行かなければいけないようだ」
アフロディーテは何か声をかけようとしたがカミュの目はもう戦いに向かう男の目だった。
「…お願い,必ず戻ってきて」
「ああ,分かってる」
カミュはマントを翻して飛び出して行った。
 
 
 
サガが約束通り,氷河を天秤宮に転送してくれるはずだ。
わざわざ頼み込んでまで氷河をこの無人の天秤宮に追い込ませるようにしたのはある作戦があったからだ。
カミュは一人その瞬間を待っていた。
10分後,目の前に時空間の歪みのようなブラックホールができて,氷河が転げ落ちてきた。
どうやらサガは約束を守ってくれたらしい。
氷河は宮の固い床に打ちつけられ,もがいていたが,どうにか起き上がった。
そして目の前に立つカミュの姿を見つけて驚いた。
そして氷河自身,体も大きくなり顔つきも男らしくなっていたことにカミュも気付いていた。
「あなたは…わが師カミュ」
「久しぶりだな,氷河」
「…あなたがここにいると言うことはここは宝瓶宮?」
「いや,ここは天秤宮だ」
「ならなぜあなたがここにいるのですか」
「お前をここから先へ行かせないためだ」
カミュは静かに語った。
「えっ,それはどういうことですか」
「お前に与えられた選択肢は二つだ。大人しくここから立ち去るか,私を倒して先に進むかだ」
わが師の意外な言葉に氷河は驚いた。
「そんなことできません。俺はアテナを救う為にこの先を進まなくてはならないんです。そして師であるあなたに拳を向けることもできません」
「それが甘いと言うのだ,氷河よ。どうしてもここを通りたければこの私を倒せ」
カミュは何かを決心すると言葉をつづけた。
「確かお前にはシベリアの海に眠る母親がいたな。…よく見るがいい」
カミュは指を天井に向けた。
カミュが念を飛ばすと,その指の先から一筋の光が道になって天空に向かい,水瓶座の星に反射して,シベリアの海中に向かって伸びて行った。
光は氷河の母の遺体のある客船に命中し,やがて船は深い海溝に向かって転がり落ちていった。
「あっ,マーマの船が」
氷河はその衝撃の光景に全身が戦慄いた。
「…マーマの船が海溝に…。あそこに入ってしまったら,もう二度とマーマには会えない…」
氷河はがっくりと膝をついた。
実際には5分ほどの時間だったろうが,その場にはまるで1時間以上に感じられるくらい,氷河はうめき続ける。
やがてよろよろと手を付いて立ち上がると,
「…許せない」
と地を這うような声で呟いた。
「身寄りもない俺にとってマーマは唯一の俺の大切な支えだったんだ。それを…よくも…」
氷河の全身を悲しみと怒りの小宇宙が覆った。
「…たとえ師であるあなたでも許さない。誰からも俺からマーマを奪うことなどできない!!」
「ダイヤモンドダストー!!」
氷河が,渾身の力でダイヤモンドダストを放った。
しかし,カミュの体にはかすりもしない。
「くっ,なぜだ,なぜきかないんだ」
「考えても見ろ,氷河」
カミュは言った。
「そのダイヤモンドダスト自体が私がお前に教えたものだ。ならばその技でもって私を倒すことなど不可能だと言う事が理解できないのか」
カミュの言葉は尤もだった。もともとダイヤモンドダスト自体がカミュが氷河に授けた技なのだから,それが見切られるのは当然のことだ。
しかし氷河は負けるわけにはいかないと,最終奥義ともいえる,オーロラサンダーアタックを放った。
「オーロラサンダーアターック!!」
氷河は渾身の冷気をカミュにぶつけたものの,カミュはそれを手ではねのけた。
「無駄だと言っているのが分からないのか?」
カミュは永久凍土の氷の岩肌のような目で氷河をみおろしていた。
「私は何度も言ったはずだ。戦いに私情を挟むなと。しかしお前はいつまでも母親のことを引きずってばかりで少しも成長が見られない。やれやれ,体は一人前の男だが,頭の中身は女々しいな」
女々しい,というよりもカミュには家族を愛するという気持ちがなかなか理解できなかったのだ。
カミュの記憶の中にある家族とは,鬼のような形相で暴れまわる父親と,自分を愛してはくれたがいつも病に伏せっていた母親と,熱ばかり出していた幼い弟の記憶しかない。
家族にまつわるほとんどの幸せな記憶などない。
普通の家族として彼の家族は機能出来ていなかったのだから無理もない。
だから氷河がここまでマーマに固執する気持ちが分からなかった。
カミュにとって家族とはとうに捨てたものだから。
「何とでも言え!」
氷河はやけくその様に叫んだ。
「なんて言われたって俺にはマーマを忘れる事なんてできないんだ!あんたはもう俺の師匠なんかじゃない。あんたの言うことなんか聞くものか」
駄々っ子のように暴れる氷河を見てカミュはとうとう苦い決断を実行せねばならないことに気づいた。
「…そうか。ならばもはやこれまでだな」
カミュは腕を組んだ。
「オーロラエクスキューション!!」
猛烈な冷気が氷河の上に荒波のように襲いかかって来た。
「うわああああああ」
氷河は,その冷気の生み出す風圧に一瞬だけ触れただけで建物の端まで吹っ飛んで,倒れた。
なんというすさまじい力であろう。
氷河はまるで赤子のように手も足も出せないままに倒されてしまった。
カミュは倒れている氷河のそばまで歩いて来た。
自分で決めていて作戦通りとはいえ,氷河を手にかけてしまった。
しかしこうするよりほかになかったのだ。
「…せめてお前の為に氷の棺を作ってやろう」
カミュのかざした手から光が伸び,あっという間に氷河の体を厚い氷が覆った。
まるでそれはアフロディーテからもらったリースを凍らせたように氷河もまた凍らされた。
「その氷は永遠に解けることはないだろう。たとえ黄金聖闘士数人がかりでもそれを砕くことはできないのだ。安らかに眠るのだ,氷河」
カミュの唇は乾いていた。
震える体のまま,天秤宮を出た。
その姿を天蠍宮にいたミロが見ていた。
声を掛けようとしたが,カミュには聞こえなかった。
明らかに様子がおかしい事がミロにも見て取れた。
カミュはそのまま階段を駆け上がり人馬宮,磨羯宮を通り過ぎ,自分の宝瓶宮も通り過ぎて,双魚宮に向かった。
 
玄関先で物音がして,アフロディーテがはっとして立ち上がって,歩いて行った。
ドアの所にカミュが立っていた。
顔が陶器のように白い。
「…どうしたの」
「…氷河が」
カミュはようやくその名前を言った。
「…氷河が。…私の手で氷河が…」
カミュは両手で顔を覆った。
覆った手が涙でぬれている。
他の黄金聖闘士も,彼を知る他の誰も,たとえ彼の一番の親友のミロですらカミュの涙を見た者はいなかった。
アフロディーテはその涙を見てしまった。
どうすればいいか分からなかったけれど,何も言わずにそっとカミュの頭を抱いた。
「…少し眠ったら?」
アフロディーテが小さな声をかけた。
女性であるアフロディーテはカミュよりも小柄で体もずっと華奢だったが,どうにかカミュの体を支えてベッドまで歩かせた。
「…ごめん」
カミュの弱弱しい笑顔を見るのはつらかった。
カミュからその不幸な境遇を聞いたばかりだからこそ余計気になった。
カミュは本当に寄る辺なき男なのだ。
家族を失い気丈に生きてきたし,そして今,氷河までも失った。
いずれもいたしかたなかったとはいうものの自らの手で寄る辺を捨てている。
そして今度は自分がその男の寄る辺になるのだ。
もうこれ以上彼を一人にしてはいけない。
何があっても彼のそばにいてしっかり支えてあげなければとアフロディーテは強く決心した。
それでもカミュはどうにかベッドまで歩くと,聖衣を着たままベッドの上に仰向けになり,やがて小さな寝息を立て始めた。
今は眠るしかない。そしてすぐに起きて今まで通りにふるまおう。
 
 
 その頃,ミロは青銅聖闘士の来襲に備えて宮の広間に立っていたが,どうしてもカミュはなぜ天秤宮から真っ白な顔で出てきたのだろうということが気になっていた。
200年近く無人の宮に一人で乗り込むのは気持ち悪かったが,亡霊でも出るわけがないし,何も恐れることはないのだと言い聞かせ行くことにした。
とりあえず懐中電灯は持って行く。
天秤宮は当番制で掃除していると言っても常に人がいるわけではないのだから,夏も少し空気が冷たいようだ。
―いや,違う
ミロは気づいた。
この冷気は無人による寒気ではない。
やはりカミュが発したものだろうか。
ミロは辺りを見回しながら冷気のもとを探した。
それは壁際にあった。
「うわっ」
ミロは腰を抜かした。
大型冷蔵庫くらいの大きさの氷塊がそこにそびえていたからだ。
しかもその中には氷河が入っている。
「これはカミュがやったのか?」
ミロは氷河の死体が氷の中に封じ込められたと言う事実にも驚いたが,カミュがとうとう氷河を手に掛けたことにも驚いた。
しかしこれでカミュが血の気のない顔でここを立ち去った理由も理解できる。
カミュの気持ちを考えるとミロはとても憂鬱な気分になった。
 
 
ミロは薄暗い中で,懐中電灯の光を氷河に充てる。
「あれ」
ミロは首をひねった。
微弱だが,小宇宙を感じる。
「ちょっと待て。氷河はまだ生きてるんじゃないか」
驚きと興奮で,ミロはさらに氷河の体を調べる。
「そうか,そういうことだったのか」
ミロは一人で納得した。
氷河は仮死状態にあった。
そしてカミュがその氷河の体を氷の棺,フリージングコフィンで覆ったのは,氷河の足止めをすると同時に氷河の命を救うためでもあったのだ。
この先,氷河を足止めすることはカミュにとって黄金聖闘士としての任務を遂行すると同時に氷河の命を救うことにもなるのだ。
つまりここで足止めしていなければ,このまま氷河は他の黄金聖闘士に突っ込んで行ってなぶり殺されてしまうかもしれない。誰よりも可愛がっていた氷河をむざむざ殺されたくない。ならばいっそ自分が手を下して氷河を仮死状態にしてフリージングコフィンで覆い,何人たりとも手が出せないようにしたのだ。なんという合理的な方法だと感心してしまったのと同時に,そこまでして氷河を助けようとしたカミュの愛情の深さにミロはただ戦慄した。
「なんてヤツなんだ,あいつは」
ミロは初めて今まで親友だと思っていた男が恐ろしくなった。
だからこそカミュはあんなにも傷ついた表情をしていたのだ。
ミロは懐中電灯のスイッチを切ると,天秤宮を出た。
だったら今自分にできることは,残りの青銅聖闘士を食い止めることだと思った。
 
 
とうとうミロのいる天蠍宮まで青銅聖闘士達がやってきた。
ミロは飛んで火に入る夏の虫と星矢と紫龍にリストリクションをかけて全身を麻痺させた。
これをかけられると全身が蛇に睨まれた蛙のようにしびれて動けなくなる。
「どうだ,しびれてぐうの音も出ないだろう。分かったら素直に負けを認めるんだな」
ミロは思った。
何としてでもカミュが休んでいる間は青銅聖闘士達を食い止めなければならないと,元からそのつもりだったのだ。
黄金聖闘士にとって青銅聖闘士が束になってかかってこようと大したことではなかったが,カミュのことだけが気がかりだった。
 
そこへゆっくりとある人影が入ってきた。
それが誰であるか分かった時,ミロは少し驚かざるを得なかった。
「星矢,紫龍,助けに来たぞ」
それは瞬を肩に担いだ氷河の姿だった。
どうやってあのフリージングコフィンから脱出したのかは不明だが,あの氷河はこうしてここにいる。
「…この男は大バカ野郎だ」
ミロは思った。
カミュの優しさ,恩を無碍にしているのも同然だ。
やってきてしまったものは仕方ない。
ミロはカミュに向かってリストリクションを放った。
しかし氷河にリストリクションはきかず,麻痺をおこすどころか,無表情のままこちらを見ている。
どうやら氷河は全身に薄い冷気のバリアーを作っているらしく,それでミロの技を受け付けないようだ。
氷河は一歩前に進み出ると,カリツオーを飛ばした。
ミロはマントで氷の輪を弾き消した。
「フンっ,この手の冷気など俺にはきかねぇぜ」
ミロは不敵に笑った。
氷河はミロから何か危険を感じたようで,
「星矢,紫龍,お前は瞬を連れて先に進め。ここは俺が戦う」
と宣言した。
その氷河の目がまるで一匹狼のような強い睨みつけるような視線だったので,
「…わ,分かったよ。必ず来てくれよ」
と星矢が言った。
 
その頃の双魚宮。
片時もアフロディーテはカミュの傍を離れられなかった。
そのとき,さっきまでよく眠っていたカミュの目が大きく見開いた。
「氷河が…目覚めた」
とカミュは一言呟いた。
「どうして…なぜまた蘇った?」
 
カミュの困惑などよそに,氷河はミロと向かい合っていた。
「ダイヤモンドダストー!!」
氷河は渾身の一撃をミロに向けた。
しかしミロは何も変わらずそこに立っていて,
「フッ,お前の冷気とはこの程度か。それよりも自分の体の心配をした方がいいんじゃないのか」
「何だと?」
氷河はミロを睨みつけていたが,ふとうつむいたときに自分の胸に穴が開いていた。
「…スカーレットニードルだ」
ミロの右手人差し指から赤い蠍の毒針が伸びていた。
氷河がダイヤモンドダストを放ったその時に,ミロは素早く氷河の胸に毒針を打ち込んだのだ。
「ぐふっ」
突然の激痛の氷河はのた打ち回った。
かつて生きてきた中で感じたことのない,神経がひっくりかえるような痛みだった。
ミロに刺された胸からまるで上半身全体の痛みのように広がった。
「どうだ,くるしいだろう。お前なんかには絶対耐えられないはずだ」
ミロは床の上を転がりまわる氷河に向かって声をかけた。
氷河は十分は床の上に転がり続けていたが,やがてよろよろと立った。
「何だ,立ったのか」
「十分もすれば痛みにもなれる」
息苦しそうだが,氷河は言い返した。
しかしどうにか立つことだけを考えていたので,そこから次の行動に移るのは難しそうだ。
「ならもう一度くらいな!!」
ミロは次の一打を一気に5か所ほど氷河の体に撃った。
当然先ほどの5倍の痛みが氷河の全身にむしばむ。
「あうっ!」
「だからよせといっただろ」
ミロは呆れた声を出した。
しかし氷河は先ほど以上の傷を負っているのに,今度は先ほどよりも早く立ち上がることができた。
「…こいつの体はどうなっている」
ミロは少しだけ氷河が怖くなった。
まるでゾンビのようにしつこく起き上がってくる。
「ミロとか言ったな…。俺は聖闘士だ。聖闘士なら一度見た技は二度と通用しない。なら一度受けた痛みはもう通じないぞ…」
氷河の発言は屁理屈のように聞こえるが,現実にこの男はさっきよりもずっと早く痛みから立ちあがったのだ。
ミロは白銀聖闘士がなぜ彼ら青銅聖闘士に敗北を喫したのかが今になって分かってきた。
それは,聖衣の優劣とは違う,個人の持っている小宇宙の爆発力だ。
氷河が痛みを受けて七転八倒しても七転び八起きのごとく立ち上がる精神力。
泥臭くて格好悪いと思ったが,自分にはここまでの精神力はあるだろうか。
「さぁ,ミロ,この俺をもう一度倒して“みろ”」
氷河の口は駄洒落を言うまでに回復してきている。
ミロはなんだか氷河にではなく,この状況そのものに自分がバカにされている気がして目茶苦茶腹が立った。
「クッ,何度来ても同じだ。行くぞ,スカーレットニードル!!」
「ダイヤモンドダストー!!」
再びミロは氷河の体に毒針を打った。
さっきとは何も変わらない。
何度同じことを繰り返そうと氷河はミロに勝つことはできない。
再び氷河は床に崩れ落ちた。
「フッ,あきらめの悪いやつだ」
しかし床の上の氷河は不敵な笑みでミロを見たので,ミロは少し寒気がした。
「…自分の足元に気をつけろ」
「なっ」
ミロが足元を見ると,何と氷でミロの膝から下が凍らされていた。
ミロは黄金聖衣を付けていたからすぐに氷を割って這い出すことが来たが,体の方は動悸がしている。
氷河の攻撃を受けたからではない。
氷河が自分の足にダイヤモンドを放っていたことに気付かなかったことが恐ろしかったのだ。
ミロはいくら若いとはいえ,高が青銅聖闘士にこのような強大な小宇宙を持つことがあるだろうかと疑問に思う。誰かが後方から高濃度のエネルギーを送っているとしか考えられない。
それは一体誰なのだろうか。
もしや青銅聖闘士達を引き連れてきたアテナと言われているあの少女だろうか。
するとやはりあの少女はアテナなのだろうか。
「さぁ,氷河。今すぐ選べ,降伏するか,死か。助かりたければいい加減に退くんだな」
ミロは叫んだが氷河は聞き入れそうになかった。
「嫌だ,断る」
「ならばもう一発だ!!!」
ミロは足元がおぼつかない氷河の体に毒針を刺した。
氷河はまた倒れたが,再び激痛に歯を食いしばりながら立ち上った。
「いい加減にしやがれ!」
ミロがさっきよりもかなり感情的な顔と声で怒鳴った。
黄金聖闘士らしくない表情と怒号に驚いたのは氷河だ。
ミロは氷河の肩をつかみ,叫んだ。
「やっぱお前は見た目ばっかり大きくて中身は全然ガキじゃねぇか。何にも分かってねぇ!!」
「え?」
氷河は拍子抜けしたような表情をした。
「カミュの気持ちが全然分かってねぇ!!」
「…」
「カミュはなぁ,お前を死なせたくなくて氷の棺に閉じ込めたんだ。このままお前が他の黄金聖闘士に突っ込んで行ったってなぶり殺しにされるのがオチだからって,お前を先に行かせないようにお前を足止めさせたんだ。そんなことも気付かねぇってのかよ」
ミロはかなり感情的になって怒っていた。
それでも氷河はミロに睨まれても言い返した。
「そんな余計な御世話なんかいらない。俺は星矢達を放っておいてまで助かりたいとは思わない。星矢達を助けるためにも何をされても最後まで戦い抜くぞ」
氷河は攻撃の構えをとった。
「…しょうがねぇ」
ミロは氷河に向かって言い,カミュに対して心の中で叫んだ。
―聞いたか,カミュ。氷河はお前が情けを掛けようが俺が手加減しようが絶対に戦って俺やお前を倒すと言った。だからこいつの命を助けるってのはこいつに対して失礼だってことだ。だから俺も全力で氷河を倒す。文句ねぇな?
カミュからの返事はなかった。
沈黙でもって肯定したのだろう。
ミロは氷河の方を向いた。
「ダイヤモンドダストー!!」
「スカーレットニードル・アンタレス!!」
二つの小宇宙が爆発した。
二つの肉体はしばらくは動かなかった図,突然地震で建物が崩れるように氷河の体が崩れた。
ミロは振り返って言った。
「…ふぅ。氷河,これでお前も本気で戦って死ねて良かったな」
ミロが氷河の体から離れようとした時,ミロの体になんと15の蠍座の星を描くように冷気が打ち込まれている。
「…な,なんだ」
ミロが黄金聖衣を着ていたから良かったものの,生身の体だとしたら確実に殺されていただろう。
「フフ,あんたの一撃の間に俺は何発ダイヤモンドダストを打ったと思う?」
倒れたまま,氷河は乾燥した声で言った。
やられた,負けた,とミロは思った。
確かにミロはここに立ち,氷河は倒れているが,この勝負はどう考えてもミロの負けだった。
ミロがぼんやりしているその隙に氷河は倒れたまま,手を使って這って星矢達の後を追おうとしている。
「…な,ちょっと,待てよ」
ミロが叫んだ。
両手両足も思うように動けず,立てなくても,それでも仲間の為にこの先を進もうとしているようだ。
なんという生命力と精神力。
ミロはある確信を持って,氷河の体を後ろからつかんで,氷河の胸のツボを押した。
とたんに,手足の痛みが和らぎ呼吸が楽になるのが氷河には分かった。
「…今,お前の真央点を押したんだ。これで多分体が楽になって来るはずだ」
「何で助けてくれるんだ?」
「さぁな。多分俺自身,興味があるからだ。お前らがどこまで戦えるのか,どうなるのか,気になるんだよな。だからこの先も力の限り戦って来い」
ミロが氷河の肩を叩いた。
「…ありがとう」
氷河は手足の感覚が戻る時を待ってから余裕を持って立ち上がった。
そしてミロに一度だけ軽く,しかしゆっくり頭を下げると宮を出て行った。
―カミュ,聞いてくれ。俺は氷河をいかせることにした。氷河をお前がどうするのかはお前に任せるけど。
 
 
 
 
双魚宮のバルコニー。
カミュは意を決したようにアフロディーテの手を握った。
「アフロディーテ。私はもう行かなければならない」
「…」
行かないで,と言う事が出来るのならばどんなによいだろう。だけど今それを言ってしまったらとても薄っぺらい言葉になってしまう。
他の言葉も出てきそうにない。
「君も聖衣を」
「えっ」
それでもアフロディーテには嫌な予感がしていた。
もう,カミュが戻ってこないかもしれないというアフロディーテには発狂したくなるような現実が起こるのではないかと思った。
黄金聖闘士が青銅聖闘士に敗れることなどあり得ない。ましてや,カミュは氷と水の魔術師と呼ばれた,黄金聖闘士の中でも特異な能力に秀でている。うまく青銅聖闘士達を止められるものと誰もが思っているだろう。
だけど,デスマスクもシャカも破れてしまったと聞いた。
そしてカミュがアフロディーテに聖衣をつけろ,ということは,自分がもし敗れた場合のことを意味しているのだ。
「そんな,ダメよ」
アフロディーテの瞳孔は完全に開ききっていた。
「アフロディーテ,落ち着きなさい。私は確率の話をしているんだ」
カミュは柵に手を掛けていった。
「世の中には確率が100%と言うものは存在しない。何もないこの世界がこのまま続くと考えていても明日には地球に隕石が降ってきて滅亡しない保証はない,外を歩いていて車にはねられない確率だって同じだ。心配するな,これはただの保証だ。大丈夫だ,青銅聖闘士は宝瓶宮で必ず私が食い止める。絶対に君に指一本触れさせない」
「カミュ…行かないで。私,殺されてもいい。あなたが一人で戦って私一人が残されるなんてそんな未来はいらない」
アフロディーテは思ったままの言葉を叫んだ。
「…男にはたとえそれが正義かどうかよりも一度決めた戦いは最後まで戦い抜かなければいけないんだ。そうでなければ私は男ではなくなる。こうして君を愛することもできなくなるだろう」
カミュはそう言って,アフロディーテの体を抱きしめて,最後のキスをした。
それは神様からのプレゼントだったのだ。
2人の為にだけ,世界は一瞬だけ時間を止めたのだ。
風は葉を揺らすのをやめ,水はそのせせらぎを止めた。
カミュは唇を離し
「大丈夫だ,悲しみの後にはきっとそれくらいの,いやそれ以上に幸せが星屑のように降り注ぐだろう。今こうして君の杞憂すら一時間後には笑い話になっているはずだ」
そして,アフロディーテと手のひらを合わせたまま柵を乗り越えた。
「ああ,一つ言い忘れたことがある」
「ええ。思い出すまで待つわ。永遠に思い出さないで」
それは手管でもなんでもなくて,アフロディーテは本当にそう思っていた。
今は100分の一秒ですらおしかった。
しかしカミュは口を開いた。
「…すぐに戻る」
アフロディーテはもう何も言えなかった。開いた唇から声も出ない。
カミュは最後に微笑んで,手を離すと下に降りた。
そして振り返らずに宝瓶宮の方に走った。
 
 
 
 
カミュは今,宝瓶宮の正面で一人,氷河の到着を待っていた。
その,全ての決着は今,ここで決まるのだ。
もう,選択肢は二つしかない。
氷河を自分の手で葬るか,自分が葬られるか。
聖闘士としての実力を考慮すると,どう転んでも前者の結果に傾くことは目に見えていた。
カミュが敗れる,という可能性など万に一つもあるはずがなかった。
しかし,カミュの目の前に豆粒のような人の形が見える。
近眼のカミュにははっきりと相手の顔を見ることができなかったが,間違いなくあれは氷河だ。
豆粒はだんだん,大きくなり,それがやがてキグナスの聖衣の特徴的な形であるとはっきり分かる頃には,氷河もまたカミュの姿に気付いていた。
氷河はミロに受けた傷もかなり回復していて,足取りも視線もはっきりとしていた。
氷河がカミュの足元の階段を登り終えた時,カミュは氷河を招き入れるようにマントを翻して背を向けて宝瓶宮に入った。
氷河も後を付いて中に入った。
「わが師,カミュ」
氷河が初めて言葉を話した。
「俺は貴方にお礼を言わなければなりません。シベリアで俺を一人前の聖闘士として育て上げてくれたことに,言葉では言い表せないくらい感謝の気持ちを感じています。だから,俺は言葉ではなく,聖闘士としてのやり方で貴方に謝意を表したい。それは俺の持てるすべての力を使ってカミュ,あなたを倒すことです」
カミュは何かを言おうとした,しかし言えなかった。
「よろしい。ならば私も全力でもってお前を葬り去る」
カミュはそう言って,片手を広げた。
「ダイヤモンドダストー!!」
カミュは氷河のダイヤモンドダストを片手で受け止め,
「何度やろうと無駄だ。こんなものでは私にかすり傷一つつけられん。そら,返すぞ」
カミュは片手に集まった氷河の冷気を跳ね返した。
氷河は跳ね返されたダイヤモンドダストを受け,壁まで吹き飛ばされた。
足が凍ってしまったらしく,思うように起き上がる事が出来ないようだ。
倒れた氷河の視界にカミュの足首が写った。
「…絶対零度とは何だ,答えろ氷河」
「うっ…」
氷河は必死にカミュに教わっていたことを思い出そうとしていた。
そもそも温度というものは物質の熱震動の運動量の大きさによってきまる。
絶対零度とは,その物質の温度の最下限で,熱振動の運動量が最小になった時,摂氏-273.15度の状態をいう。
「氷河,絶対零度とは究極の冷気だ。要は自らの小宇宙をいかに絶対零度に近付けるかが勝敗を決める。そしてお前は私以上に絶対零度に近付くことはできないだろう。何人たりとも私以上に絶対零度に近付く小宇宙など持ち合わせてはいないのだから。さあ,潔く敗北を認めろ」
カミュは氷河に向けて両手の指を組んだ。
「こ,この構えは…」
氷河は一瞬ひるんだ。
しかし,もう遅かった。
「ならばもう一度その身に受けよ,オーロラエクスキューション!!」
一瞬で体内の血が凍りつき,皮膚の水分が氷になってはじけ飛ぶほどの冷気に覆われる。
カミュの冷気が発する煙がやがて消え,氷河の姿が残った。
しかし,その氷河は倒れてはおらず,うつむきながらも立ち尽していた。
これには氷河以上にカミュが驚いた。
「なぜオーロラエクスキューションを食らってもお前は立っていられるんだ?」
カミュ最大の技,オーロラエクスキューションを氷河はあっさりと見切ってしまったのだ。
「…どんな技だろうと一度食らった技は二度とはきかない。それを教えてくれたのは貴方だ」
氷河はもう一度顔を上げ,こたえた。
「オーロラサンダーアターック!!」
氷河は残りの力すべてを拳に込めてオーロラサンダーアタックを放つ。
カミュはそれを巧みに避け,
「無駄だ!!」
と跳ね返した。
氷河の体が地面に落ちるその直前にカミュはもう一度フリージングコフィンを放って氷河を再び氷の棺に閉じ込めてしまった。
「…もうこれ以上無駄な抵抗はよせ」
カミュは動かなくなって氷河に向かって叫んだ。
「これ以上お前自身と私を苦しめるな。もうお前には戦えるだけの力も体力もなかったのだ。意味のないことを繰り返して何になる。ならば苦しまないようにお前を眠らせてやることこそ私にできる最後の親心なのだ」
仮死状態になってしまった氷河は何も答えない。
カミュはため息をついて背を向けた。
―これで,よかったのだ。こうするほかなかったのだ。全ては私の予定通りだった。何を気にかけることがあるのだ。
 
それでもカミュはしばらく魂が抜けたように立ち尽していた。
そのとき,カミュの耳元で砂利を転がすような音がした。
頭を動かさずに目だけで背後を見ると氷河が入った氷塊がひび割れ始めている。
カミュは息をのんで氷塊を見た。
ひびはだんだん拡がっていき,透明だった氷塊が真っ白になった。
ボン!!
爆発音のような音がして,膨張した氷塊は一気に破裂した。
氷河はぐったりとしていたが肩で息をしていた。
「まさかお前,自分の力でこの氷を割って出たと言うのか。バカな,それはあり得ない」
それもそのはず,カミュが作った氷の棺はカミュの持てる最大の冷気で作り上げるものだ。
それを壊すことは黄金聖闘士数人でも不可能であり,壊す方法は天秤座の黄金聖衣に付属した武器を使うか,カミュの冷気以上の冷気を加えて破壊するしかない。
つまり,氷河はカミュを超える冷気を会得したと言うことになる。
青銅聖闘士の,それも十代の少年が,このカミュを超える冷気を会得したと言うのである。
「カミュ,ここに来た時俺は言った。何があっても何度倒されても俺は最後に貴方を倒す」
カミュは初めて氷河に対して恐怖を感じた。
もしかしたら自分は負けるかもしれないと言う恐怖。
「行くぞ!!」
氷河はカミュに向かって目茶苦茶な弾道を描いて冷気を放った。
「ふっ,笑止!このような冷気,私を倒せるとでも…」
カミュもまた氷河に向かって冷気を放った。
するととんでもない事が起こった。
互いの冷気がほぼ互角に拮抗し,大きな塊となって二人の間でくすぶっているのである。
「…やはり氷河はほぼ私と同等の冷気を扱えるようになったと言うわけか…」
しかしカミュにはまだ勝算が残っていた。
それはカミュと氷河が装備している聖衣の違いなのだ。
聖衣にもその素材によって性能や強度が違う。たとえば青銅聖衣は-150℃でその機能を停止し,白銀聖衣なら-200℃で使い物にならなくなる。しかし黄金聖衣を機能停止するには絶対零度-273.15℃の冷気を加えなければならない。
つまりカミュが黄金聖衣を着用している限り,誰であろうとカミュを倒せないのだ。
氷河とてそのくらいは分かっているはずである。
しかし氷河はあきらめることなくカミュに向かって冷気を放ってきた。
なんという不屈の精神力であろうかとカミュは氷河の顔を見た。
いや,精神力ではない。
なぜなら氷河はすでに気を失っていたのだ。
意識を失い,体だけがまるで何かにコントロールされたように立ち,手を突き出していた。
「…氷河」
しかし,カミュはあることに気づいた。
このまま氷河が気を失ったままでいると,すべての冷気が氷河を直撃する。
それは完全なる氷河の死を意味する。
それもしかたのないことなのだろうか。
いや,まだあきらめるのは早かった。
氷河はまるで電気が走ったように意識を取り戻し,自分に迫ってきた冷気の塊をカミュに向かって押し戻した。
「あっ!!」
今度はカミュが吹っ飛ばされた。
そう,カミュは今,初めて氷河に体を吹き飛ばされた。
慌てて受け身の姿勢で着地するカミュだったが,体の様子がおかしいことに気づいた。
なんとカミュの聖衣が凍っている。
先述の通り,カミュの装着している黄金聖衣は絶対零度を持ってせねばその機能を停止することはない。
しかしカミュの聖衣が凍っている今,氷河は絶対零度を放ったということになる。
「…くぅっ」
カミュの疑問は確信に変わった。
もはや急いで氷河を仕留めねば今度は確実に自分が殺される。
「…見事だ氷河。だがお前にはたとえ絶対零度を使えるようになったところでこの私を倒せはしない。なぜならば,お前にはその絶対零度を活かすことのできる決定打を持たないからだ」
カミュはそう言い,再び,指を組んだ。
「さぁ,氷河,今度こそ最後だ」
するとその言葉を合図に氷河がゆっくりと指を組んだ。
その指の動きは紛れもなく,カミュの奥義・オーロラエクスキューションだった。
「なっ,お前は何をしているんだ。私の技を真似ようとしているのか。バカな。一度や二度見た技を使えるはずなどない。そんなことはありえない!!お前ならそれくらいのことを分かっているだろう」
しかしカミュも今,ここで御託を述べている暇はない。
こうしてしゃべっている間にも氷河の体には確実に強い小宇宙がみなぎり,冷気をどんどん高めているのが目に見えた。
「受けよ,氷河!!オーロラエクスキューションを!!」
ドゴォォォォォォォォォォォン!!
互いの放った冷気がビッグバンを起こした。
宝瓶宮は冷気の煙に包まれた。
煙は約10分ほどくすぶっていたが,やがて水蒸気は消えていった。
二人は組んだ指を相手に向かって突き出したまま人形のように動かなかった。
いや,動けなかった。
二人とも,全身の血液や体液が凍り,内臓などの身体機能はほぼ停止していた。
「…み,見事だ,氷河」
カミュはつぶやいた。
「この私のすべてを引き継ぎ,そしてまたこの私をも越え…究極の小宇宙に目覚めたのだな」
しかし全てはもう遅い。
「…できればこれから先もお前を生かしてやりたい。そして私自身,お前がどこまで成長するのかも見てみたい…だが,そのどちらもかなわぬようだ。…アフロディーテ,最後にもう一度君の笑顔を見たかった。…頼む,君だけは…君だけは生き延びてくれ」
カミュはゆっくりとうつぶせに倒れていった。
向い側に立っていた氷河はまだ立ち尽していた。
「…カミュ。貴方は命がけでこの俺を絶対零度に導いてくれたのですね…。あなたの思いにもっと早く気付けば良かった…不肖の弟子ですみません。…だけど,だけど,俺は貴方の弟子で幸せでした。…ありがとう,カミュ…」
氷河の乾いた目を潤すように涙が流れ,氷河自身もまた,冷たい床の上にぐったりと倒れてしまった。
 
 
その頃,バルコニーで膝を抱えて震えていたアフロディーテの体が跳ね上がった。
カミュの小宇宙が途切れるのを感じたのだ。
同時にアフロディーテは火が付いたように泣き叫んだ。
声をからさんばかりに泣き喚いた。
髪を振り乱し,涙や鼻水を流し,慟哭する彼女はまるで気がふれたかのようだった。
いや,いっそ気がふれてしまった方が,彼女にとっては幸せだったかもしれない。
しかし,彼女の心は狂う事がなかった。
そのとき,アフロディーテの耳元で声がした。『泣かないで,かわいそうなお姫様。どうか泣かないで』
優しい女性の声だった。
「…放っておいて。私のことなんて放っておいてちょうだい」
アフロディーテはかたくなに首を振った。
『少し私の話を聞いてちょうだい。貴方の愛しい王子様はあなたの顔がこんなに涙でびしょ濡れになることを望んだかしら?さいごまであなたにはいつも笑顔でいてほしいときっと願ったはずだわ。そうでしょう?さあ早く顔を上げるの』
「貴方は誰?貴方に何が分かるって言うの?」
アフロディーテは怒って顔を上げたが,そこには誰もいない。
『やっと顔を上げてくれたわね』
バルコニーのガラス戸を隔てた先にも人の姿はない。あるのは魚座の黄金聖衣だけ。
まさか聖衣がしゃべったのだろうか。
アフロディーテは恐る恐る聖衣に近付いた。
『貴方,本当はいつまでもこんな所で泣いている暇はないのよ。今度は貴方が戦わなくてはいけない時なの。彼の死を無駄にしたいの?さあ,私を着て戦って。さあ早く』
アフロディーテは泣き崩れたい気持ちをなんとか抑えながら髪と化粧を直し,魚座の黄金聖衣を装着した。
礼装用のマントを付け,トレードマークの白薔薇を髪に留めた。
「行くわよ…」
全身が震えて立てなくなりそうな足を必死に庇いながらアフロディーテは双魚宮の正面に向かった。
 
立ち尽すアフロディーテの前に2人の少年が上って来るのが見える。
ペガサスとアンドロメダの青銅聖闘士だった。
二人はアフロディーテの足元まで駆け上がってきた。
ペガサスの方,星矢がジャンプした。
「ちょっと通らせてもらうぜ」
アフロディーテは吹き矢のように星矢に向かって薔薇を放った。
「なんだっ」
星矢は薔薇を避けて着地した。
「なんだ,今のは…」
星矢は意味が分からなかったが,ここで思案している時間などない。
アフロディーテはにっこりと微笑んだ。
星矢はのますます意味が分からなくなって,
「じゃあな,魚座の黄金聖闘士」
と大急ぎで双魚宮を通り抜けた。
アフロディーテは無言で星矢の背中を見ていた。
突然,アフロディーテは何かに右手首を引っ張られた。
アフロディーテの手首をアンドロメダ座の瞬が鎖で引っ張っていた。
女性で,しかも体重の軽いアフロディーテは小柄な瞬でも引っ張ることができた。
「貴方は星矢が無事に双魚宮を通り抜けるまで動かないでいてもらう」
「それじゃああなたはずっとこうしているの?」
アフロディーテはにこりとして瞬に聞いた。
「えっ」
「だって彼,永遠にここを抜けられないわよ。すぐに死んじゃうわ。薔薇の葬列に送られて」
「何だって?」
「何も知らないのね。この先にはね,ずーっと茨の道が続いているの。もちろん咲いているのはただのバラじゃないわ。デモンローズって言ってね,毒薔薇なの。匂いを嗅いだらあっというまに気持ちよくなって文字通り天国へ行けるわ」
「…くっ,そんな。星矢!!」
瞬が星矢を助けようと双魚宮を出ていこうとした。
しかし,それではアフロディーテ自身にとってとても都合が悪い。
鎖の絡まった手を引きよせた。
「待って。私の相手は貴方がするんじゃないの?」
逆に引き寄せられた瞬はアフロディーテを見上げて言った。
「星矢を助けてくれれば僕は何もしない。僕は女性を傷つけたりはしないんだ」
つまらないフェミニストだとアフロディーテは思った。
しかし,アフロディーテは瞬の聖衣を見てこの状況は僥倖と思った。
「…あなた,アンドロメダの聖闘士なのね。だったらあなたはアンドロメダ島にいたのよね?」
「そうだ。だけど,聖域から討伐にやってきた黄金聖闘士に島は壊滅され,僕たちの先生だったケフェウス座のダイダロス先生もころされてしまったんだ」
「その黄金聖闘士がもし私だったら?」
「えっ」
瞬は目を見張ってアフロディーテをもう一度見た。
「それじゃああなたがダイダロス先生を手に掛けた張本人だというのか」
「そうよ。私がやったの。だってしかたないわよねぇ。命令だもの」
アフロディーテは宣言した。
「やはり僕はここに残って良かった。ダイダロス先生の仇…」
瞬は鎖を握りしめた。
「星雲鎖ー!!」
瞬は鎖を投げた。
「私をなめないで!!」
アフロディーテは鎖を振りほどいた。
その衝撃で瞬は吹っ飛ばされた。
「ロイヤルデモンローズ…」
アフロディーテは無数のバラを瞬に向かって飛ばした。
瞬の体の周りを真紅の薔薇が覆い尽くす。
瞬の視界が薔薇の色で真っ赤になる。
しかし不思議なことに息苦しさはない。
むしろ,心地よい眠気が襲ってくる。
瞬はなんだか眠くなって倒れてしまった。
「…どう?痛くはないでしょう?ロイヤルデモンローズはね,眠るようにして全身の感覚を奪って死に至らしめるのよ。だからじっとしていなさい。そうすれば楽に死ねるの」
アフロディーテが親切に忠告したにも関わらず,瞬はエビのように体を折り曲げ,手足をばたつかせた。
「どうして動くの。じっとしていればずっと体は楽なのよ」
「アフロディーテ。僕は男だからね,こんな所でじっと死ぬのを待つほど弱虫でもないし,あきらめのいい人間じゃないんだよ」
「そう。じゃあもう一度あげましょうか?ロイヤルデモンローズ!!」
「守れ,ローリングディフェンス!!」
瞬の体の周りをチェーンが包み込んだ。
チェーンはことごとく薔薇を弾き飛ばした。
「きゃあっ」
アフロディーテは悲鳴を上げて消えた。
同時にピンクの花霞が起こり,姿が見えなくなった。
「どこかに隠れたな。でも,無駄だよ。僕のチェーンはね,たとえどんなに離れていようと狙った獲物を見つけ出して倒すんだ。ゆけ,
サンダーウェーブ!!」
瞬が放ったチェーンはどこまでも伸び,天井に伸びた。
「キャッ」
カツーンという金属音がして,アフロディーテは地面に転げ落ちた。
再び二人はにらみあった。
「…先生。先生の仇を僕が今討ちます!!」
瞬は鎖を握りしめなおした。
「サンダーウェーブ!!」
チェーンがアフロディーテに向かって一直線に伸びて行った。
しかしアフロディーテは回避行動を取るどころかそこにじっとしている。
そのとき,チェーンの動きがアフロディーテの胸の前で止まった。
「どうしたんだ,チェーンが動かない!!」
アフロディーテの左手には黒薔薇がある。
どうやらチェーンはこの黒薔薇に反応しているらしい。
「これが何か気になるでしょう?」
アフロディーテはクスクスと笑って言った。
「これはね,ピラニアンローズっていうの。あなたがじっとして死ぬのを待っていられないようだから,すぐに死ねる薔薇を使ってあげるのよ。舞えよ,黒薔薇,ピラニアンローズ!!」
「守ってくれ,チェーンよ!!」
アフロディーテの放った無数の黒薔薇が瞬に向かってくる。
瞬はチェーンに防御の体制を命じた。
黒薔薇は瞬のチェーンの周りを覆い尽くすように覆いかぶさってきた。
チェーンはバラの花をはじこうとするが,弾かれたバラは一枚ずつの花びらとなってさらにチェーンにまとわりついた。
すると大変な事が起こった。
薔薇の花びらがチェーンに触れただけで,チェーンはまるで腐食するようにひび割れていく。
「チェーンが…。僕の鉄壁のチェーンが」
瞬は茫然として叫んだ。
とうとうチェーンは黒薔薇によって粉々に砕かれてしまった。
黒薔薇はチェーンを破壊するだけでは飽き足らず瞬の聖衣までも毒牙に掛けた。
「うわぁぁぁぁぁ」
瞬は頭を押さえて,必死に身を守ろうとするが,一度食らいついた黒薔薇は相手を破壊し尽くすまで絶対に離れない。
全身を血まみれ傷だらけにされて瞬は頭から倒れた。
動かなくなった瞬を見てアフロディーテはためいきをついた。
ーやっぱりダメみたいね。
とても憂鬱そうな目だった。
それはまるで死に場所を求めてさまよう獣のようだった。
瞬の体がぴくり,と動いた。
それと同時に瞬の体から狼煙のような小宇宙が立ち上がった。
「まだだ…まだやられたくないんだ」
瞬は膝を使って手を使いながら立ちあがった。
聖衣もチェーンも破壊された瞬にはもう何ひとつ残されていないはずだ。
このまま何度瞬が立ち上がろうと意味がないとアフロディーテは思った。
もう攻撃の手段を持たない瞬はアフロディーテを殺してくれそうな親切な剣にはなりそうにはなかった。
ならばこの戦いを早く終わらせ次の死に場所を探さなくてはならない。
立ち上った瞬はアフロディーテに向かって右手を突き出した。
これ以上何ができるのだろう。
「僕は…本当は生身の拳は使いたくなかったんだ。だけど他に方法がないんだ」
「な…何を言っているの」
「行くぞ,ネビュラストリーム!!」
瞬の掌から気流が発生してアフロディーテを取り囲んだ。
それは渦を巻き,アフロディーテの体を容赦なく封じ込めた。
「これで貴方の動きは完全に封じ込めた。あなたの命は僕の気持ち一つでどうにでもできるようになったんだ。…今ならまだ間に合う。ダイダロス先生の霊に詫び,星矢を助けてくれるなら…」
「甘いわよ」
ストリームの制約を掻い潜りながらアフロディーテは髪を留めている白薔薇を初めて外し,瞬に向けた。
このストリームの中,あれだけの動きができる彼女はやっぱりお荷物ではない,ちゃんとした黄金聖闘士だった。
「…この程度のストリームで私の体を完全に封じ込めたって思ってる?赤い薔薇はゆっくりと死に至らしめるデモンローズ,黒薔薇はすぐに死ねるピラニアンローズ,それでもまだ悪あがきをするあなたにはもうこの白薔薇を打つしかなさそうね」
アフロディーテは言った。
「この白薔薇はブラッディローズ。これが私の手を離れたら,この薔薇はどこまでも相手を追ってその心臓に突き刺さるわ。それは相手がだれであろうと変わらない。もちろんあなたですら。そして胸に刺さった薔薇は貴方の血をどんどん吸い上げ,赤くなるの。そして薔薇が真っ赤になったら…」
アフロディーテは少し間をおいた。
「…あなたは死ぬわ」
瞬の目が興奮の色が強くなった。アドレナリンが一気に上昇する。
「私にこの薔薇を打たせたのは貴方が初めてよ。褒めてあげる」
「やめるんだ,アフロディーテ。それ以上僕を攻撃したらいよいよ僕はあなたを殺さなくちゃならない」
瞬は最後の通告を申し出てきた。
「そう。さようなら,お人好しのアンドロメダさん。飛んでけ,ブラッディローズ!!」
ーさぁ,おいで。優しい剣,貴方の鞘はここよ。
アフロディーテの最後の願いとともに投げつけた一本の白薔薇がまっすぐな軌跡を描き,瞬の胸に突き刺さった。
それを合図に瞬は究極の小宇宙を爆発させた。
「ネビュラストーム!!」
アフロディーテを覆っていた瞬の気流が嵐に代わってアフロディーテを吹き飛ばした。
華奢なアフロディーテはかなり遠くまで吹っ飛んで落ちた。
アフロディーテは頭を強く打ち,脳内出血を起こしていた。
「…この私を倒しちゃうなんてすごいね。…でもあなたもすぐに滅びるわ」
胸にブラッディローズが刺さり,立ったまま体が硬直し始めた瞬にそう言い残し,アフロディーテはよろけながら双魚宮を出た。
壁に寄りかかりながらアフロディーテは最後の力を振り絞って階段を降りて行った。
残された彼女の気力はただひたすら宝瓶宮に向かうことだけしかなかった。
歩いている間にもアフロディーテの体温と血圧はどんどん下がり続け,呼吸も苦しくなった。
宝瓶宮の大広間に人形のように仰向けに倒れている愛しい人の姿を見た。
「ああ,カミュ」
アフロディーテは今まで我慢していた涙があふれ出た。
しかしカミュはもう愛しい女性の呼びかけにこたえることはなかった。
アフロディーテはカミュの顔や髪に何度も触れ,その名を呼び続けた。
「…まだこんなに体は温かいのに」
アフロディーテは嗚咽していた。
「でも,これでもう誰も私達の邪魔はできないわ。さあ,連れて行って」
アフロディーテはカミュの唇に自分の唇を重ねると,ゆっくりと瞳を閉じた。
 
 
 
氷河との戦いでミロは負傷もしたし,精神も相当まいっていた。
壁に寄りかかって泥のように眠っていたが,目が覚めた時,辺り一面の寂寥の気配に驚いた。
「な,何だ,この寒い気温は」
ミロを起こしたのはアイオリアだった。
「…全て,終わったんだ。星矢達によってアテナの命は救われた」
アイオリアの返事がすべてを物語っていた。
残念ながらミロはアイオリアに詳しいことを聞き出すことはできなかった。
「お前が最後の生存者だそうだ。様子を見て来いと言われた」
アイオリアが雑兵を呼び,ミロは担架に乗せられ毛布を掛けられて白羊宮に来た。
ちょうどアルデバランが息のある者達の応急治療をしていた。
そういえばアイオリアも首にギプスを巻いている。
ミロの番になった。
まずは凍傷の部分を温められ,目や口の中も見てもらったが,問題はなかった。
その後迎えに来た救急車でアルデバランの勤め先の系列の総合病院に運ばれた。
けが人多数で,ミロは治療を受け,大部屋に運ばれた。
隣のベッドにはシャカがいた。
「…ミロか」
気配を読んだのか,シャカが寝たまま声を掛けた。
「起きているのか」
「うむ。私は熱さましを投薬され,降圧剤の点滴だけでたいしたものはない。君はどうだ。何分今の私は目を閉じていて様子を知ることができないのだ」
「満身創痍,と言いたいところだが,凍傷と内出血だけで済んだ。その気になれば体も動かせる」
「アテナは無事黄金の矢が消えて同じこの病院で安静にしているそうだ」
ミロのほかにいる黄金聖闘士はムウ,アルデバラン,アイオリア,シャカしか出会わなかった。
他の者達はどうなったのだろう。
大方見当がつくが,聞き出す勇気がなかった。
夜になってシャカが寝てしまうのを待って,
ミロは病院を抜け出した。
 
 
翌朝,病院のロビーでムウが言った。
「ミロの回復を待ってアテナの拝謁に向かいましょう」
「アテナは今どこに?」
アイオリアが尋ねると,
「すでに回復して先に聖域の広場にいってもらっています」
「なら俺でも動ける」
ミロがいつの間にか戻っていた。
ムウを先頭に残された黄金聖闘士達は沙織のいる広場まで向かった。
「アテナ,我々はこれからもアテナを守り,地上を守るために戦います」
黄金聖闘士以下雑兵に至るまでもがアテナに誓いを立てるため,沙織にひざまずいた。
アイオリアはミロが頭を下げず,じっとしていることに気付き,注意をしようとした。
「アテナ,この蠍座のミロ,誓いを立てる前に見て頂きたいものがあります」
ミロは恐れながら申し出た。
「お前はいまさら何を言ってるんだ?」
アイオリアがイライラして言った。
「…分かりました。何かあるのですね。案内してください」
沙織が言った。
ミロは沙織を宝瓶宮に連れて行った。
そこで一同が見たものとはカミュとアフロディーテが折り重なって倒れている姿だった。
2人の体の周辺をいくつもの薔薇が取り巻き,葬列を織りなしていた。
「カミュお兄ちゃん!!」
貴鬼が叫んで,駆け寄った。
「お兄ちゃん,起きてよ」
貴鬼は懸命にカミュの顔をたたき続けた。
確かにカミュの死体は眠っているようだったので,叩けば目を覚ましそうにすら見えた。
「貴鬼,カミュはもう遠くへ行ったんだ。…分かるだろう。もう…帰って…来ない」
アルデバランが貴鬼の体を抱きよせた。
「じゃあもう,お兄ちゃんは笑ってくれないし,べんきょうもみてくれないし,あそんでくれないんだ」
「畜生,なんでだよ。何で黙ってたんだよ。一言言ってくれれば2人が死ぬこともなかったんじゃないのか」
アイオリアが悔しがった。
シャカは二人の間に座り,枕経を唱えた。
「…彼らもまたこの戦いの犠牲者なのですね」
沙織は二人の手,カミュの右手とアフロディーテの左手を繋がせ,2人の青と水色の長髪をひと房ずつ一つに編んだ。
そして振り返り,
「これで彼らはもう離れることがありません。永遠に二人はずっと一緒です」
と言った。
「うわぁぁぁぁん」
我慢できずに貴鬼は泣きだした。
「世の中には悲劇や悲惨な話はよくあるが,この2人の悲恋のような話は現実にはそうあるまい」
シャカが顔を遠くの方へ向けた。
 
 
あの後,移植コーディネーターから連絡があり,サガの心臓移植手術に適合するドナーがアメリカで見つかったとのことだった。
しかし何もかも遅すぎた。
サガは自分の罪を認め,自害した。
しかしその最後まで彼はアテナに「弟を頼みます」と気にかけていた。
その後奇跡的に回復した氷河の手元にカミュの遺品を預けるためにミロが日本までやってきた。
衣類や本のほかに丁寧に使われた革張りのチェロケースとノートパソコン。
氷河もあと数年で自動車免許をとることができる。
カミュのセルシオはその時に良かったら使ってほしいとミロが言った。
今思えばカミュは苦労ばかりの人生だった。不幸な少年時代を過ごし,氷河を一人前に育て上げた後,半年もしない間にサガのクーデターの犠牲者になってしまった。
自分が不幸だとか辛いとか泣き言を言わなかったカミュだったが,本当は必死に耐えていたのだろう。
その事を考えると胸が痛いと氷河が話すとミロは,
「でもなぁ,カミュが不幸だったかって言うとそうとも思えないんだよなぁ。お前との6年間はきっと苦労も多かったけど仕事にやりがいやお前と過ごす楽しさを感じていただろうし,ギリシャにいたときだってサガの仕事を手伝って信用を得ていたし,友達も彼女も出来てその半年間は本当に幸せだったんじゃないの」
いつも孤高な存在のイメージあったカミュだったから,聖域でミロ以外の友達や恋人がいたことに自分の知らないカミュがいるような気がして氷河は少しだけカミュに対してずるい,と思った。
「だからお前もそんな悲しい顔するな。カミュはな,最後までお前のこと気にかけていたんだ。結婚したらお前を養子縁組して3人で暮らしたいって。最後まで未来のことを見てた。だからお前も,絶対に振り向くな」
氷河は泣きたくなるのを我慢してうなずく。
そこへ勢いよくドアが開いて買い物に行っていた一輝と瞬が入ってきた。
「ただいま,氷河。あっミロ」
瞬はミロに気が付いて頭を下げた。
一輝は氷河に本屋のビニール袋を放り投げてよこした。
「ほら,お前に頼まれていたヤツ。こんなもの買ってどうするんだ」
ビニール袋から出てきたのは,「基礎からはじめるチェロレッスン〜初心者編〜」と書かれていた。
本のタイトルを見たミロは,
「カミュもきっと喜ぶ」
と言った。
すると一輝が,
「お前こんなもん弾きこなせるのか?まぁ俺達が最初の聴衆になってやるぜ。ただし1曲聴いてやるごとに\500よこせよ」
と笑った。
氷河は,
「じゃ,月賦にしてくれ」
と言い返してほほ笑んだ。その直後,氷河の首筋の後ろを藍色の風が通り過ぎて行ったようだった。

(下巻・完)
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