ここはシベリア空港。搭乗口で,一人の青年と一人の少年が向き合っている。
少年の背中には白鳥座の青銅聖衣の箱がある。
「カミュ先生,今までご指導ありがとうございました」
金髪の少年は目の前の青年に向かって頭を下げた。
カミュ先生と呼ばれた青年は軽くうなずいた。
「氷河,聖闘士になったら,アテナの聖闘士として節度と礼儀をもって行動するのだぞ」
「はい。先生もお元気で」
氷河はもう一度頭を下げる。
「それでは先生,さようなら」
氷河は手を振って搭乗ゲートに向かった。
その姿が見えなくなると,
「ふむ,それでは私も行くか」
と,カミュは別の搭乗口に入った。
目の前に真っ白いボディに青の尾翼の機体が現れる。
アエロフロート,235便,モスクワ行き。
これがカミュの乗る飛行機だった。
この飛行機でモスクワに行き,そこからアテネ行きの飛行機に乗る。
 
カミュは全ての聖闘士の中でも最強と呼ばれた黄金聖闘士の一人,水瓶座を守護する聖闘士である。
すらりとした長身に海色の長い髪が印象的な美男子で,薄いブルーの瞳にまっすぐに通った鼻筋,行儀よく結ばれた口元から発せられる深く広がりのあるバリトンの声は,彼の理知的で穏やかな性格を表していた。
 
アテネへ向かう機内の中,彼はぼんやりとこれからのことを考えていた。
カミュは黄金聖闘士でありながらシベリアに幾人かの弟子を抱えていた。
その最後の弟子であった氷河が,たった今巣立った。
これから先,カミュは本来の黄金聖闘士としての仕事に戻ることになる。
それは水瓶座の黄金聖闘士として聖域でアテナとその神託を受けた教皇を守り,宝瓶宮を守護することだ。
これまで多くの候補生をたった一人で育て上げたカミュの実績は素晴らしいものだと言える。
しかし,すべての候補生が卒業してしまい,なんだか子供を嫁に出した父親のような気分になった。
ーこれからどうしようか。
カミュは何か新しい自分の生きがいを聖域で見つけられるだろうかと考えていた。
カミュは機内食のラビオリにタバスコを大量に振りかけて流し込むようにして食うと,立て続けにウイスキーのロックを何杯も飲みこんで眠ることにした。
睡眠中に夢を見たが,覚えてはいない。
 
悲しいことに,カミュはどんなに気分が沈んで抑うつ状態でも体は健康だった。酔いつぶれてアテネまで眠り続けているはずが,朝食の機内食のにおいで目が覚めてしまった。おまけに悪酔いをしているどころか,よく眠ったので体の調子がすこぶるいい。
窓を見ると,一面は雲で真っ白だった。
動かない雲を見ていると,飛行機がまるで雲の中で停滞しているのではないかと錯覚を起こしてしまいそうだ。
ギリシャの気温はおそらく温暖だろうから,そろそろ服で体温調節した方がいいかもしれない。
アテネの空港に着くと,聖衣を入れた箱とトランク一つぶら下げてタクシーを探すカミュに,
「カミュ!」
と声をかけるものがあった。
青い長髪の長身中肉の陽気で人の良さそうな青年が手を振っている。蠍座の黄金聖闘士,ミロだ。
「やっぱりこの飛行機だったんだな。迎えに来てやったんだ。タクシー代もばかにならないからな」
ミロはご自慢の赤いスポーツカーを指さした。
「ありがとう」
カミュは素直に言ってミロの車に乗った。
「そうか,氷河もとうとう聖闘士になったか」
ハンドルを操りながらミロが言った。
「弟子が一人もいなくなって寂しいんじゃないか?」
「そんなことはない。むしろ一人の時間ができて気楽になるだろう。これからは黄金聖闘士としての仕事と趣味に打ち込むつもりだ」
カミュの声には抑揚がなかった。
聖闘士たるものいつもクールでなくてはいけない。仕事に関しては私情をはさまず,常に冷静でいなければならない,それがカミュの今まで生きてきた中での信条だった。
しかし,実際はミロの言葉がまるで自分を見透かされているようで慌てていつも通りのクールな表情を作った。
ミロはカミュの気持ちを察しているのかいないのか,それ以上はその話題を持ち出さなかった。
ミロと一緒にカフェで軽いブランチを済ませて聖域に着くと,カミュはミロの天蠍宮で休憩した後,まずは黄金聖衣に着替え,教皇に帰還のあいさつに向かった。
「水瓶座のカミュ,唯今戻りましてございます」
教皇は相変わらず深々とマスクを着け,大きな法衣を着込んでいるので,顔も体型もはっきり分からない。
カミュ自身,この教皇の顔を知らない。気にならないこともなかったが,大企業などは平社員が重役や社長の顔をよく知らなかったりするし,わざわざ隠している顔や体を暴くほどカミュは好奇心もなかったので気にしないようにした。
要は自分達を上手に使い,毎月決まった給料やボーナスを支払ってくれたらそれでいいのだ。
「シベリアでの後進者の育成,御苦労であった。お前の業績はここ聖域まで聞き及んでおったぞ」
「はっ,ありがたいお言葉,いたみいります」
「これからは他の黄金聖闘士達とこの聖域を守ってくれ」
カミュは最敬礼をして教皇の間を出た。
教皇の間を出た時,誰かがこちらを見ていたのに気付いた。
カミュは近眼なので相手の顔までよく見えなかったが,ピンクのムームーを着た水色の髪の毛の長身痩躯の少女だということだけが分かった。
 
 
宝瓶宮に戻った時,カミュはなんだか気が重かった。何しろ数年は放ったらかしにしておいた宮である。
しかし,庭部分の草はきれいに刈られていて,玄関先に先にシベリアから送っていたカミュの引っ越しの荷物が運び込まれていた。
ー誰かがやっておいてくれたのか
後は明後日以降に船便でカミュの愛車のセルシオが着く。それ以外の荷物はそろっていた。
とはいえ,もともと本来のカミュの自宅は宝瓶宮なのだから,シベリアからの引っ越しの荷物はほんのわずかだ。
しかし問題は室内だ。
出る時には軽くそうじはしたものの,埃だらけで汚いかもしれない。
しかしホームレスでもあるまいに吹きっさらしの広間で生活することはできない。
諦めて玄関を開けた。
しかし思っていたより中の「被害」はひどくなかった。
ただ,長い間閉めきっていたので,カビのようなにおいが気になっていたので,とりあえず窓を開けようと思った。
窓を開けると,
「カミュ,戻ったのか」
テラスから色白肌と黒髪に黒目で精悍な顔立ちのひょろりとした体型で,黒いTシャツに白いジーパンの青年が顔を出した。
カミュの隣の磨羯宮を守る,山羊座のシュラだった。
「ああ。後であいさつに行こうと思っていたのに」
「いや,いいさ。それより荷物をほどくのを手伝おうじゃないか」
 
彼の後ろに隠れるようにして一人の少女が立っていた。
さっき教皇の間の外で見かけた水色の髪にピンクのホルターネックのムームーのあの少女だ。
年齢はカミュと同じくらいだろうが,しかしその美しさといったら!
真昼のアドリア海のような淡い水色の髪と真夏の白夜のようにきらきらした瞳に,長いまつげ,通った鼻筋と小さな小鼻,小さな控え目な唇にはパールピンクの口紅がよく似合っている。
近眼のカミュはその時初めて少女の左目に泣きぼくろがあることが気付いた。
少女はバケツを持っていて,バケツの中にはゴム手袋や洗剤やぞうきんなどが入っていた。
少女は瞳孔が開かんばかりにカミュの顔を見ていた。
先述の通り,カミュは軽い近眼である。
普段は裸眼で生活しているが,車の運転や読書で細かい文庫本の字を読むときはメガネをかけている。
そのカミュが,少女の顔をよく見ようとすると,どうしても眉間にしわを寄せて目を強く見開く癖がある。
その強い射抜く視線に少女はひきこまれてしまったのである。
「ああ,こいつはアフロディーテ。魚座のアフロディーテだ。年は俺達と一緒だけど,俺にとっちゃ妹みたいなもんだ。どうしても手伝いたいっていってきかないんだ。しょうがないやつだよな」
カミュは黄金聖闘士の中に女性がいることは知らなかった。
「じゃ,お邪魔するぜ」
シュラはそう言って靴を脱いでテラスから上がりこんだ。アフロディーテもサンダルを脱いで付いて来た。
「なんだ,電気くらいつけろよ」
シュラはそう言って勝手に壁のブレーカーのスイッチを入れた。
室内に明るい光がこぼれた。
そこからは荷物も少ないこともあって,作業は進んだ。
シュラはカッターナイフも使わずエクスカリバーで段ボールを開け,荷物を運び出していた。
アフロディーテは埃のかぶった家具を丁寧にぞうきんでふいてくれた。
世話好きのシュラが手伝ってくれてカミュはすぐに部屋の片付けを終えた。
パソコンの無線LANもシュラが繋いでくれた。
「シュラ,私の引っ越しの荷物を運んたり草を刈ってくれたのは君か?」
「ああそれ。せっかくだから中に入れといたんだ。草もあんまりボーボーだと大変だろ」
「ありがとう」
 
シュラとアフロディーテが帰ってからさっそくカミュはノートパソコンを机に置き,メールを調べた。
迷惑メールやダイレクトメールのほかに1通,メールが入っていた。
―まさか,氷河か?
淡い期待を持ってメールを開いたが,残念ながら氷河ではなく,同じく聖闘士の養成業をしている白銀聖闘士,ケフェウス座のダイダロスからだった。
ダイダロスはカミュより年下で,白銀聖闘士だったが,多くの弟子をとり,養成業そのものを生業としている男だった。同業者と言うこともあり,カミュには数少ない友達の一人だ。
『カミュさん
貴方の所の氷河君は無事,白鳥座の聖衣を手に入れ,シベリアを出たそうですね。
私のところも日本人の瞬と言う少年が無事アンドロメダ座の聖衣の最終試験に合格し,先週帰国しました。今まだ訓練中の女子候補生
のジュネも近いうちにカメレオン座の聖衣を賜る予定です。弟子のめまぐるしい成長は教師としてもとてもうれしいものであり,私がこの仕事を続けていくことのやりがいでもあります。同時に彼らが私の手から離れていくことで一抹の寂しさを感じることもあります。これもまた避けられぬわかれなのです。しかしカミュさんは黄金聖闘士なのですから,これからは一人の黄金聖闘士として聖域に根をおろし,多くの人々やアテナを救う仕事をして下さい          ダイダロス』
カミュはため息をついてパソコンを閉めた。
カミュはふと,壁に掛けられたチェロケースを開けた。
そういえばチェロなど長いこと弾いていない。
昔氷河が小さかった頃子守唄の代わりに弾いて聞かせてやったものだ。
ここ数年は触っていない。
たまには弾いてみようか。
夜,カミュは宝瓶宮正面にイスを置いて,久しぶりにチェロを弾いた。
カミュがいつも弾いていたのは,バッハの無伴奏チェロ組曲,第1番,チェロを弾く者にとってはお手本であり,教科書のような曲だった。
カミュのチェロの腕はセミプロの一歩手前,というレベルで,ごく普通の趣味で弾く人よりは幾分かはましだったが,それ以上でもそれ以下でもなかった。
それでも弓を引いていると,感覚を忘れているわけではないようだった。
かつて氷河が幼かった頃,このチェロでいろいろな子守唄を弾いてやったものだ。
カミュはかつてのその頃を思い出していた。
その氷河も一人前になり,今はもういない。
そんなことをしみじみ考えていた。
明日はトイレットペーパーや食料品を買うためにミロが車を出してくれるのだ。
カミュは演奏をやめて中に入った。
 
 
翌朝,カミュはミロと一緒にアテネの大きなショッピングセンターに行った。
とりあえず今週中に自分の愛車が来るので,それまでの食料品を余裕をもって買いこんでおくつもりだった。
買い物がすむと,ベンチで携帯電話を使ってしゃべっているミロのもとへ戻った。
「…そうそう,あ,友達が来たみたいだ。それじゃ」
ミロは電話を切った。
「電話を切らせて悪かったな」
「いや,また晩にかける」
おそらく電話の相手はガールフレンドだろう。
「そういえば」
ミロが言った。
「カミュって美形なのに彼女いないのな。全くお前はお坊さんみたいなやつだな」
「興味がないだけだ」
カミュは短く答えた。
シベリアにいた頃,氷河がいつも言っていた。
「俺が早く聖闘士になってカミュに楽をさせてやりたい。そしたらカミュにもお嫁さんが来るようになるだろう」と。
まだまだ結婚するには少し早い年齢ではあったが,容姿も見目麗しく人柄もよいカミュに浮いた話の一つもないことが氷河ですら気付いていたのかもしれない。
 
 
翌日,カミュは聖域の民生委員である牡羊座のムウに夕食をご一緒したいと招待を受けた。
食事にも魅力を感じたが,いろいろとここでのことについてききたいこともあったので,ぜひおうかがいすることにした。
ムウの白羊宮は十二宮でも一番ふもとにあり,インド風の装飾が施された美しい白亜宮だった。
インターホンを鳴らすと,身長だけでも2メートルはゆうにありそうな逆三角形の見事な筋肉質の体をもったオールバックの長髪の男性がドアを開けた。彼が牡羊座の黄金聖闘士なのだろうか。
「こんばんは。お招き頂きありがとう。私はアクエリアスのカミュ」
「おお,あんたがカミュか。なかなかのいい男だな。俺は牡牛座タウラスのアルデバランだ」
アルデバランはグローブほどの手でカミュの手を握った。
しっかりとした温かく大きな手だった。
「ムウ,お客人が来られたぞ」
アルデバランは奥に向ってどなった。
アルデバランに案内されて,カミュは広いダイニングの席に着いた。
ムウは,カミュより小柄で,藤色の髪を後ろで結んだ,色白でもち肌質の中性的な雰囲気の人だった。物腰も言葉遣いも柔らかい。
「カミュ,ようこそ」
「このたびはお招き感謝する」
「こちらこそお越しいただいて光栄です」
お互いが頭を下げるのを見てアルデバランが,
「まあ,堅苦しい挨拶はなしだ」
と,グラスにビールを注いでくれた。
アルデバランの言動からして,彼はどちらかというと客と言うより始めからここにいるようなホスト側の人間のようだった。
ムウの宮の中には子供が一人いた。珍しいお客さんを見て大喜びでやってきた。
「おいらは貴鬼っていうんだ。アッぺンデックスの貴鬼。8歳だよ。ムウ様の第一の弟子なんだぜ」
顔もムウによく似ていたので,ムウの子供だろうかと考えたが親ならばムウ様などと呼ばないだろうしわざわざそれを確認する気もなかった。
カミュは,8歳と聞いてそういえば氷河が初めて自分の所にやって来たのも貴鬼と同じ年だったことを思い出した。
さて,今日はカミュのほかにもう一人客人がいた。
白い絹の民族衣装を着た長い金髪の美男子だが,目は閉じられていてどうやら盲人のようだった。
カミュがどうやって挨拶していいものかと悩んでいると,
「フッ,目を閉じていても君の顔くらいは分かる。ようこそ,アクエリアスの黄金聖闘士よ。私は乙女座バルゴのシャカだ」
と,名乗った。
全員がテーブルに着くと,ムウがしゃべりだした。
「実は今日あなたを招待したのも,あなたが無事にここでの生活に不自由はないか,何か困ったことはないか確認しておきたかったのですよ」
「お陰様でなんとかなっている」
カミュは答えた。
「まぁ,分からないことがあったり何か困ったらムウかこの俺に言ってくれればいつでも聞くぞ」
アルデバランが付け加える。
食事をしながら色々と十二宮でのことを聞いた。
カミュが以前いたころとだいぶ様変わりしているようだ。
ムウから教えられたことはまず双子座の黄金聖闘士のサガと言う人間が重い心臓病でサナトリウムにいること,その空き家となった双児宮はまがまがしい気配を放っているので近寄ってはいけないこと,ゴミ出しのルールを守ること,自分の宮に外から女性を引っ張りこんではいけないこと,ちょっとした副業は別にしても構わないことなどだった。
現にアルデバランは毎日近くの老人福祉施設にアルバイト扱いだが正看護師として働いているとのこと。
看護師と言っても入所者が大きなけがや病気をすれば病院へ入院させるから,主な仕事は入所者の体を洗ったり,おむつを交換したり,食事や薬を飲む補助をしたり,という体力仕事が主だと言っていた。だからこそこういう現場は腕力のある男性看護師が重宝されるのだと言っていた。
その日の料理はハーブとプロシュートとクルトンを使ったサラダ仕立てのオードブルを始め,モロヘイヤのクリームスープ。メインはポークソテーを数種類のキノコを使ったペッパーソースを添えたものだった。
臭みがなく,やわらかく,蕩ける様な肉質。脂身も甘みがあり,それなのにしつこさがない。
そして何よりハーブの香りが素晴らしい。
「これは本当に豚肉か?」
「スペインから取り寄せたイベリコ豚です。赤身もコクがあるし,脂身もさっぱりしていておいしいでしょう?」
ムウが答えた。
「そのハーブもいつも双魚宮から譲ってもらってるんです」
「双魚宮?アフロディーテか?水色の巻き毛にピンクのアッパッパーを着た」
アッパッパーは死語である。
「おや,もう彼女にあったのですか。綺麗なお嬢さんでしょう」
カミュは気になっていたことを聞くことにした。
「女性の聖闘士はすべて仮面を付けて活動せねばならぬと聞く。しかしなぜ彼女は仮面を付けていない?」
「それは彼女が魚座の黄金聖闘士だからだ」
シャカが代わりに答えた。
「?」
「そもそもなぜ女性の聖闘士はみな仮面を付けているか分かりますか」
ムウが逆にカミュに質問した。
「恐らく男性と対等に渡り合うには女性の顔ではなめられるからではないのか」
「それもありますが,ここは我らが神,アテナの性格を考えて下さい。伝説によるとアテナ神はとても嫉妬深い神といわれています。自分の美貌をアテナより美しいと自慢したメドゥーサは髪の毛を蛇に変えられてしまいましたし,アテナよりはた織りがうまいと豪語したアルケニーは蜘蛛の姿に変えられてしまったのはあなたもご存じでしょう。そこから彼女達は顔を隠してアテナの嫉妬を買わないように細心の注意を払ってきたのですよ。しかし,魚座の黄金聖闘士だけは違うのです。あなたはご存じなかったかもしれませんが,代々魚座の黄金聖衣は女性にしかまとうことができません。それは魚座という星座そのものが美と愛の女神アプロディーテーの象徴だからです。代々魚座の黄金聖闘士を継いできた彼女達が皆その時代のアテナをしのぐほどの美しさを誇っていたというのもアプロディーテーの加護を受けているからに他なりません。そしてその美貌こそが彼女達の武器なのです。ですから彼女達は仮面をつけないのです。彼女達は咲き誇るバラのように美しいですが,その恐ろしさは食虫植物のようです。敵を幻惑して一瞬に死に貶める力を持っています。もちろん…あなたが出会ったアフロディーテも例外ではありません。しかし,制約はあります。彼女達を妻や恋人とした男性はみな不幸になってしまうのです。ですから,結果的に男性は皆彼女達から逃げてしまうのですよ。これもまたアテナの嫉妬が起こした呪いかもしれませんね」
カミュは黙ってムウの説明を聞いていた。
こうなるとうかつにアフロディーテにその美貌を褒めなくて良かったと思った。
 
食事がすむとケーキとお茶が出た。
カミュはこのたびのお礼に,チェロを披露した。
演奏するのは,ライムライトのテーマやシバの女王,恋は水色,涙のトッカータ,キャッチーで聴きやすいムードのある音楽が中心だ。
貴鬼の為にドラえもんの歌やミッキーマウスマーチも弾いて聴かせた。
貴鬼は,お兄ちゃん,すごい,と何度も大はしゃぎしていた。
 
「今日はどうもありがとう」
帰り際カミュはもう一度ムウに礼を言った。
「いいえ。こちらこそ美しい音色を聴かせてもらいました」
「あんたのような温厚でいいやつが黄金聖闘士でよかった」
アルデバランはもう一度カミュと握手した。
「素晴らしい。妙なる調べだ。久しぶりに名曲の数々を生演奏で聴かせてもらったよ」
と,シャカ。
「カミュお兄ちゃん,また弾いてね!」
貴鬼が言った。
「いつでも弾いてやろう」
カミュは貴鬼の頭を撫でて優しく笑った。
 
 
次の日の夜,突然,インターホンが鳴った。
ドアを開けると,アフロディーテが立っていた。
「あの…カーテン洗濯したんですけど付けてもいい?」
この夜少女はようやく発声した。か細くて小さいが品のあるソプラノだった。
アフロディーテはカミュの部屋のカーテンを持っていた。
「洗濯してくれてたのか」
カミュはアフロディーテを中に上げた。
「あの,他に私でできることはない?」
「えっ…」
「あの,迷惑ならいいの。でも細かいこととか私でお手伝いできることない?」
カーテンを取り付けた後,アフロディーテは台所で古い食器を洗ってくれた。
「ごめん,助かるよ」
カミュが声をかけると,アフロディーテは明るい声で,
「いいの。私隣だから,いつでも来られるし,それに男の人一人だとこういうこと,大変でしょう」
と言う。
「しかし,女性の黄金聖闘士がいて十二宮のしんがりを務めているとは初めて知った。驚きだな」
「最後だから,よ」
アフロディーテが呟いた。
「神話の時代から,教皇に直訴に来てまともに十二宮を突破した人なんていないそうよ。今だって大半は白羊宮でムウに説得されるか,残りはアルデバランに恐れをなして逃げるかのどれかよ。だから私はここにいるだけでいいの。だって誰もここまで来れないんだから。お荷物聖闘士の私にはぴったり」
アフロディーテは自分のことをお荷物だと思っているのだろうか。
確かに男性と女性では腕力や体力に差がある。しかし,アフロディーテが本当にお荷物で弱かったら聖衣が認めることはないはずだ。
カミュはそこまで考えたが,こういう場合,下手に慰めるのはよくないと思って話題を変えた。
「ムウと言えばあの人はかなりやり手の黄金聖闘士のようだな」
「そうね。あの人は頭もいいし,面倒見もいい人だから。聖衣の修理職人でもあるのよ。でもあの人,本当は教皇と仲が悪いの」
アフロディーテはムウに対して明らかに不信感があるようだったから,昨日ムウのところで夕食をごちそうになったことは黙っていた。
かと思えば,
「それでもあの人は私の作ったハーブをよく褒めてくれるの。つい私も嬉しくなっちゃってたくさんあげてしまうんだけど」
とにこにこする。
その日何かお役に立てれば何でも言ってほしいとアフロディーテは言い,携帯電話番号とメールアドレスを交換した。
アフロディーテが帰る間際にカミュが穏やかなバリトンで声を掛けた。
「私は長い間ここを留守にしていた。昨日からここに根をおろして生活することになった。分からないことも多い。これからよろしく頼まれてくれ」
頭を一つ縦に振ると,逃げるようにいなくなった。
1人になってからカミュの携帯電話が鳴り,相手は車の配送業者だった。
カミュのセルシオがアテネに到着したので今から配送しても構わないかとのことだった。カミュが頼むと言うと,20分ほどで到着すると言っていた。
 
カミュが聖域に来て2週間が経っていた。
聖域の暮らしに不安と緊張していたカミュだったが,今ではすっかり杞憂もなくなって,住めば都だということに気づいた。
きっとここで快適に暮らしていけるかもしれない。
シベリアに比べてアテネは暑いくらいに温暖で,シャツ一枚でも十分に過ごせる。
仕事も先週から週五日午前中,近くの高校の非常勤の音楽講師として行くことに決まった。
周りの黄金聖闘士や出入りの雑兵達も皆カミュに親切に接してくれる。
そのようなことをノートパソコンの中の日記帳に書きとめておいた。
 
機嫌がいいので,今日は宮の裏庭にイスを出してチェロを弾くことにした。
裏庭はシュラが草刈をしてくれていたおかげできれいになっていたし,辺りは見晴らしがよくなっていた。
当然,すぐ上の双魚宮もよく見えた。
アフロディーテの双魚宮はピンクや赤や黒や白の美しいバラがいくつも絡まったまさに愛と美をつかさどる女神アプロディーテーの神殿そのものだった。
アフロディーテは,背中を丸めて花壇の手入れをしていた。
カミュには気付いていない。
「こんにちは」
さざ波のようなバリトンが響いて驚いてアフロディーテは振り返った。
「…あ」
「また驚かせてしまった」
「いいえ」
「この間は掃除をしてくれてありがとう」
「いいのよ。私にできることなんてそれ位だから」
「実は今日は君に頼みたいことがあるんだ。私と一緒にショッピングに付き合ってほしい」
「?」
「引っ越して来たばかりで足りないものも多いんだ。私はこういうことには不慣れだから君が一緒についてきて見てくれた方が助かるだろう」
「…ええいいわよ」
アフロディーテはあっさり承諾した。
アフロディーテはもともと家具や雑貨を見るのが大好きな女の子だったので,好都合だった。
安価でセンスの良いものを選んでくれる。
おかげでカミュはいい買い物ができたようだ。
 
 
翌朝,カミュ達は全員教皇の間に召集された。
全員が招集されるということは尋常な状況ではあるまい。
光り輝く魚座の黄金聖衣をきちんとまとい,礼装用のマントも付け,髪の毛に真っ白いバラを差したアフロディーテの姿は,本当にエーゲ海の泡より生まれたアプロディーテーのように神々しい美しさにあふれていた。
彼女は山羊座の聖衣をクールに着こなした親友のシュラ氏とおしゃべりに夢中だった。(といってもアフロディーテが一方的に熱心に何かをしゃべっている様子だったが)
 
全員がそろうと教皇はぽつりぽつりと話した。静かな口調だが,明らかに興奮が見て取れた。
「これは日本の新聞だ。この記事を読みたまえ」
教皇はプロジェクターのボタンを押した。
それは,13年前に聖衣の持ち主と一緒に行方不明になった射手座の黄金聖衣の写真だった。
カミュはそれとはなしに獅子座の黄金聖闘士のアイオリアを見た。
アイオリアはその失踪した射手座の黄金聖闘士の実弟だったからである。
アイオリアは少しうつむき加減で座っていたが,残念ながら近眼のカミュにはアイオリアの表情まではよく見えなかった。
「それでは教皇,その黄金聖衣が見つかったというのですか」
シュラが質問した。
「そうだ,日本の東京にグラード財団という財団があるそうだ。黄金聖衣はそこに蔵されているようだ。そのー財団は聖衣を勝手に見世物にしているばかりか若い青銅聖闘士を集めて総合格闘技の興行をやっているそうだ」
「アテナの聖闘士は高潔な存在であり,私闘は許されず,ましてや興行などのみせものではないはず」
シャカが強く憤慨して言った。
「その通り。すでに何通か抗議の書簡を送ったが,無視されてしまった。仕方ないので粛清のつもりで何人かの白銀聖闘士を送り込んだ。たかが青銅聖闘士数人,黄金聖闘士の君らの出張る幕はないだろうが,一応そのようなことがあると報告だけしておく。以上だ」
青銅聖闘士,と聞いてカミュは氷河もまさかこの興行に参加しているのではないかと心配になって来た。
しかし氷河は賢い少年だった。
カミュの教えをよく守る素直で優しい少年だったのだ。
カミュは氷河に口を酸っぱくして教えていた。
それは先述のように,戦いには一切の私情をはさまず,つねにクールな気持ちで臨むこと以外には聖闘士は自分の私利私欲の為にその力を使ってはいけないことだ。
このカミュの自慢の生徒の氷河ならきちんと理解しているはずだろう。
そんなつまらない興行に参加するわけがない。
そういえばダイダロスの所の候補生も氷河と同時期に青銅聖闘士になった者がいたと聞いたが,どうなったのだろう。
カミュはパソコンからダイダロスにメールを送った。
 
それからは何食わぬ顔でカミュは宝瓶宮を出て,天蠍宮に遊びに行った。
ミロと一緒に久しぶりに天蠍宮の裏庭でバドミントンに興じた。
カミュはミロに気になっていたことを話した。
「アイオリアは今回の事,どう考えているのだろう」
「さぁ,何も変わらないんじゃないか。聖衣は見つかったけど肝心の兄は行方不明のままなんだしさ」
カミュはミロの飛ばしたシャトルを拾いに行った時,何やら携帯電話でしゃべるムウの姿を見かけた。
カミュはムウに先日のお礼を言おうと思い,近付いた。
カミュは近眼の為,普通の人間よりは耳が鋭い。
そのカミュはムウの会話を聞いていた。
「…分かりました。すぐに戻ります。はい,ええ,一つ50万円で結構です。はい,はい」
電話を切るとムウはいなくなった。
 
その頃,ここは聖域近くの町の小学校。
貴鬼はチベット人だが保護者のムウの関係でここの小学校に通っていた。
算数の時間は退屈だがこれが終われば給食の時間だ。
チャイムが鳴るのを待って貴鬼は今日の給食が大好きなミートスパゲッティだったと思い出し,陽気な気分だった。
そのとき,担任の先生が入って来た。
「貴鬼くん,おうちの方が迎えに来られたぞ」
廊下にムウが立っていた。
「すぐに私と一緒に来るのです。さあ早く」
ムウは片手に貴鬼のランドセル,片手に貴鬼の手を引いて学校を出た。
「ムウ様,なにがあったんですか,おいら,まだ給食食べてません」
「後でお弁当を買ってあげますよ」
ムウのただならぬ行動に貴鬼は何かを感じ取って黙った。
白羊宮に戻るとムウは隣の金牛宮のアルデバランに声をかけた。
「アルデバラン,急用ができたので私達はしばらくチベットに帰らなくてはいけません。留守の間,よろしくおねがいします」
アルデバランは驚いた顔をしたが,分かったと言った。そして,せめて空港まで送らせてくれと言った。
そこでアルデバランが自分の車にムウと貴鬼を乗せ,出発するのをミロとカミュは見ていた。
 
それから二人は蟹座の黄金聖闘士のデスマスクにランチに招待された。
カミュは正直デスマスクとは二度くらいしか顔を合わせた事がないが,正直苦手な印象があった。
聞くところによるとデスマスクはシチリアマフィアの子供だと言う。
小柄で痩せ形,服装は一流ブランド物のシャツを着こなし,青紫の髪で確かに男前は良いが目つきがそれこそ蟹の爪のように鋭く,それだけでかなり威圧感はある。
 
しかしミロは何も感じないのか,ニコニコして座っている。
デスマスクはカミュに白ワインを薦めた。そして,
「お前,ヤクザは嫌いか」
単刀直入に聞かれた。
「よく分からない,関わったことがないから」
するとデスマスクは,
「俺は嫌いだ」
と言った。
そこでデスマスクは自分の素姓を教えてくれた。
「俺のお袋はマフィアのボスのコレ(ここでデスマスクは右手の小指を立てた)だった。それなりに可愛がられていたらしいが,新しい女ができると俺達親子はポイっと捨てられちまった。お袋はもともと売春婦だったから,町の人間からも蔑まれててよ,手に職も持たなかったからなかなか仕事にありつけなくてな。それでも日雇いの仕事をしながら俺を育ててくれた。貧しかったけど,俺はお袋に可愛がられていた。あるとき,そのマフィアのくそどもが俺たち親子を邪魔になったんだって島から追い出そうとしたんだ。とんでもねぇ話だ。追い出されたって俺達親子は行くアテねぇ。神様でも悪魔でもいいから助けてくれって俺が思ったその時,俺の人差し指から変な光が出て,チンピラどもはいきなり心不全起こしてバタバタ倒れた。よくわからねぇが,もしかしたらと思い俺はそのクズ野郎の所へ行った。そしたら俺が生きてまだ島にいたもんで幽霊でも見たように青い顔しやがった。へへへ,こいつは好都合だと思ったよ。俺はクズ野郎に指さして言ったよ。お前なんか一撃であの世へ送ってやるってな。そしたらどうだ,また指から光が出てクズ野郎はうぅーって苦しみだして倒れちまった。愉快だったね。これで誰も俺たち親子の邪魔はしねぇ。ところが,1週間もしないで知らないやつが来て,素質があるから俺を引き取って聖闘士の修業をさせたいって言って来たんだ。もちろん最初はヤダって言ったさ。でもな,もし俺が訓練生になったら俺がマフィアの連中をぶち殺したことは不問にするし,お袋の生活の保護もしてやる。もし無事に聖闘士になれたら子供でも聖域から給料がもらえるって聞いた。だから俺は修行に行くことにした。一度貧乏と命の危険を味わっている俺には多少のきつい訓練も平気だった。それに訓練に参加すれば新しい服も貰えたし,飯も腹いっぱいたべられたし,読み書きだって教えてもらった。俺には修業は全然苦痛じゃなかった。そして俺は遂に蟹座の黄金聖闘士になった。黄金聖闘士ともなりゃ給料も違う。お陰で今はお袋にずいぶん楽をさせてやることができた。ああ,俺はこれからも戦うぜ。アテナとか聖域とか関係ねぇ。俺は自分が生きるために戦うんだ」
熱弁をふるっているデスマスクの横顔を見てカミュは彼を誤解していたことを少しだけ,申し訳なく思った。
彼の鋭い眼光は決して凶悪さからではなく,幾度も修羅場をくぐりぬけてきた男の慧眼だったのだ。
結局その日はミロも交え話が盛り上がり,夕食までごちそうになり,カミュが宝瓶宮に戻ってきたのは深夜だった。
カミュがメールをチェックするとダイダロスからの返信があった。
『カミュさん
青銅聖闘士の興行のことは私も知っておりました。教皇から白銀聖闘士は青銅製闘士を止めるようにとの命令書も受けましたが,私はあえてこの命令を無視しました。確かに聖闘士の私闘は許されていいものではありませんけど,それを白銀聖闘士がわざわざ出向いて行って粛清していいものでしょうか。白銀聖闘士が相手では青銅聖闘士は殺されてしまうかもしれないと思うのです。尊い少年達の人命を殺しても守らなくてはいけないのでしょうか。私にはよく分かりません。ですから無視しました。カミュさん,あなたはどうしますか?』
メールの内容からはダイダロスの苦悩が感じられる。
カミュは自分の氷河に対して絶対的に信用していたから,そんなバカな行為はしないと思うが,もし氷河がこの興行に参加していて,白銀聖闘士と戦うことになったらどうしようかと考えた。
 
 
一週間ほどたったある日,カミュは獅子宮の前を通ると,アイオリアが大きなサバイバルリュックを背負って出てくるところだった。
「どこへ行くんだ」
「日本へ」
「どうしてまた,急に。君はうまれてからいちどもギリシャから出たことがないだろう」
「実はあれから状況が変わったんだ。教皇のご勅命を受けて日本に行った白銀聖闘士がことごとくやられてしまったらしい」
「そんなバカな話があるものか。白銀聖闘士が束になってかかって行っておきながら,返り討ちになってはとんでもないお番狂わせではないか」
「俺もそう思う。だからこそこの目で確かめたいんだ。…もしかしたら兄貴のことも分かるかもしれないし」
やはり何も言わなくてもアイオリアはずっと気にもんでいた。
「しばらくはギリシャには戻らない」
アイオリアはこうして人生初の海外旅行をたった一人で行くことになった。
アイオリアは12の黄金聖闘士の中でも最も剛の者と知られ,腕力もあのアルデバランに勝るとも劣らぬほどだと言う。
だからこそ返り討ちになることはないだろうが,それよりも先述の通り生まれて一度もギリシャを出たことのない男が飛行機に乗って無事日本に到着したとしてもそこから先が心配だった。
帰宅するとダイダロスからファックスが届いていた。
ギャラクシアンウォーズと書かれていて,どうやら問題の青銅聖闘士の興行のパンフレットのようだった。
そのパンフレットの参戦聖闘士リストの10人の名前の中にはっきりと『白鳥座の氷河』の名前があった。写真も経歴も間違いなく,氷河のものだ。
ダイダロスの所の候補生だったアンドロメダ座の瞬の名前もある。
「なんということだ」
カミュは腹の底から呻く。
そこへご都合主義的にミロが入って来た。
「どうした,幽霊みたいな顔じゃないか」
「ミロ…」
いつもクールで無表情のカミュの顔色がとても悪かった。
「ん,なんだそれ」
ミロはカミュの手のファックス用紙を見た。
言い逃れはできないだろう。
「氷河…氷河がギャラクシアンウォーズに」
「やっぱり…嫌な予感はしていたんだ。今年青銅聖闘士の合格者は今のところ10人だろ。だから確率的にはもしかしたらって思ってたんだ」
「…」
「まぁ待て,カミュ,落ち込むのはまだ早いぜ。お前の自慢の氷河なら途中で改心してばかなまねはやめてくれるかもしれないだろ。それにかけようぜ。俺でよかったら助けてやるよ」
ミロはにっこりした。
カミュはこの瞬間ほどミロの楽天的な性格が心強いと思ったことはなかったし,そんな男が自分の親友でありがたいと思った。
 
その三日後,アイオリアが帰って来た。
他の黄金聖闘士達と口も利かず,あれだけ快活だったアイオリアが引きこもってしまった。
一体日本で何があったのか誰もが聞きたがったが,聞くのも恐ろしくあった。
カミュもまた氷河の件があったから今は他の黄金聖闘士と口をききたくなかった。
自分が氷河の教師であることはいずればれるのも時間の問題だろうからだった。
 
 
翌朝,獅子座の黄金聖衣を着込んだアイオリアは教皇の間を訪れた。
教皇は,ちょうど執務中で,乙女座のシャカとお布施の話をしていた。
「アイオリア,今日は何の用向きだ」
「実は今日,教皇に御確認させて頂きたいことがあるのです」
「なんだね」
「教皇,俺は先日日本に行っていました。白銀聖闘士ですら退ける青銅聖闘士とはどのようなものなのかと」
「…」
「そこで私は5人の少年聖闘士と出会いました。彼らはとてもまっすぐでよい子たちです。私は彼らがアテナや聖域を危険にさらすとは思えないのです」
「アイオリア,君は気が確かかね。初めての海外旅行で疲れてどうかしてるんではないか」
シャカが横から声をかけた。
「俺はまじめに言っているんです」
アイオリアの声は大きくなる。
「だいたいこの奥のアテナ神殿には本当にアテナがいるんですか」
「君,なんということを言うんだ」
「ごまかしたって無駄ですよ。俺は知っているんです。アテナはここにはいない。なぜならアテナは俺の兄がある日本人に託して,今は日本に住んでいるからです。つまりこの奥にアテナがいるなんて全くのウソなんです」
教皇は仮面をかぶっていて表情は読めなかったが,少し動揺しているようだ。
その同様の理由はアイオリアの言っていることが真実だからなのか,あるいは単なるアイオリアの突飛もない言動に驚いたかのどちらなのかまではだれにも分からなかった。
「まぁ落ち着きたまえ。君は少し興奮しているようだ」
教皇は使いの者に水を持ってこさせた。
「まずはこの水をのめ。そして落ち着いて話すのだ」
と,教皇はアイオリアに水を飲ませた。
水を飲み干すとアイオリアはいきなり周りを見回した。
「なんだ?なぜ俺はここにいる」
どうやら先ほどアイオリアに飲ませた水の中に忘れ薬が入っていたようだ。
「シャカ,悪いがアイオリアを自分の宮まで送ってやってくれ」
シャカはうなずいてアイオリアを連れて行った。
一人になってから教皇は椅子に寄りかかって考えた。
ー何者かが私のことを怪しみ始めたようだ。私の正体を知っている者は…あいつしか,ないな。やむをえまい,始末するか。
教皇は電話の内線を押して使いの者を呼んだ。
「デスマスクをここへ」
ほどなくして派手なスーツを着た蟹座のデスマスクが出向いてきた。
「何の用だ」
相手がたとえ教皇でもデスマスクの口調は横柄だ。
「五老峰に住む天秤座の童虎を殺せ」
「は?あんなのヨボヨボだし放っておいても死ぬぜぇ」
「バカモノ。童虎の恐ろしさをなめてはいかん。ヤツが何か手をまわしておるに決まっている」
「へいへい,了解しましたよ,教皇。その代り飛行機はファーストクラスで頼むぜ」
 
 
ある夜,デスマスクとアフロディーテがカミュの所にやって来た。
「ねぇ,一緒について来て欲しい所があるの」
デスマスクの車に乗って,3人は聖域の隣町に行った。
「わるいな,急に連れ出したりして」
デスマスクが素直に謝罪した。
「別に構わない。退屈していた」
デスマスクのフェラーリはとある医療センターのサナトリウムに到着した。
デスマスクを先頭に,カミュはアフロディーテに手をひかれながら清潔そうなサナトリウムの中を歩いた。
一番奥の病室の前でデスマスクはドアをノックして返事を待たず開けた。
カミュも一緒に中へと入る。
広い明るい部屋で,中央のベッドに若い男が経済新聞から目を上げてこちらを見ていた。
年頃はカミュよりも年上で,身長ほどある長く青い髪に青白い肌,優男風の貴族的な気品すら感じられる美青年だが,かわいそうにやせ細り,顔色も非常に悪い。
「君がカミュですか」
よく澄んだテノールの声だった。
「そうだが。貴方は?」
「私はサガ,双子座のサガです」
ムウから双子座の黄金聖闘士が長期入院していると聞いたが,なるほどこんな弱い体では聖衣はまとえないなとカミュは思った。
「実はこの通り私は心臓に大病を患っておりまして,体がつらく,伏せております。ひがなひたすら病のことばかりを考え,辛い考えばかりが浮かび床に伏せている時に,このアフロディーテから,カミュ君のチェロを聴かせてもらったらと教えてくれたのです。もし君がよければですけど,ここへ来て演奏を聴かせてもらえませんか」
病人に懇願されては断ることができない。そこで週に何度かサガの部屋を訪問してやることにした。
「ありがとうございます」
サガは微笑んだ。
「俺からも礼を言うぜ」
「カミュ,ありがとう,愛してるわ」
アフロディーテはカミュの頬にキスをした。
デスマスクとアフロディーテに礼を言われてカミュは恐縮してしまった。
「彼はね,私達にとってお兄さんみたいな人なの。だからね,なんとかしてあげたいの」
「しかし私は医療関係者ではない。アルデバランに相談はしたのか。彼は看護のプロではないか」
「いいえ。あの人はダメなの。いい人なのは知ってるけど,ムウの親友だから」
アフロディーテはムウのことをあまりよく思っていないことはカミュもよく知っている。その事を覚えているから,カミュは分かった,と返事した。
 
 
サガはカミュの訪問を快く迎えてくれ,カミュも演奏をしてやるだけでなく,サガの話の聞き役にもなった。
サガはカミュにぽつりぽつりと自分のことを話し出した。
「ねぇ,君,私には昔弟がいたのですよ。私の唯一の肉親です。大事な弟でしたがとても困った子でね,悪さばかりしていたんです。暴力沙汰を起こしては捕まるのを繰り返していました。もちろん私の説得にも答えてくれません。腹にすえかねた私は弟をスニオン岬に幽閉してしまったんです」
と,ここでサガは肩を落として溜息をつく。
「分かっています。あのときはそうするしかなかったんです。放っておいたら聖域も近隣の町もめちゃめちゃになってしまうと思いました。しかしどんな理由であれ自分の弟を見殺しにしたのは事実です」
ああ,この人は十年以上たった今でも正義のためとはいえ,自分の弟を傷つけてしまったことを悔いているのだな,とカミュは思った。
もし自分に氷河がこぶしを向けてきたらどうしよう,カミュはそんなことを考えてサガの話を聞いていた。
そうなるとますます他人事ではいられなくなった。
カミュはアフロディーテに内緒で,アルデバランの所を訪ねた。
彼なら何かいい方法を知っているかもしれない。
アルデバランは夜勤に行っているとのことで,
待っていたら,帰って来た。
しかしまるで幽霊のような顔でひどい落ち込みようだ。
ベンチに座っているカミュがあいさつすると,アルデバランは大きな体に小さな声で答えた。
そしてなぜかカミュの隣に座ると,独り言のようにしゃべり始めた。
「今日,俺の勤めてる老人ホームでカシモドのじいちゃんが老衰で亡くなってなぁ。92歳だったよ。俺の担当でさ,いつも体や頭を洗ったり薬を飲ませたりしててさぁ,もうずいぶん呆けちまって色んな事も分からなくなっていたが,俺が体を拭いてやったりするとにこにこしてなぁ,いいじいちゃんだったんだよ。けさも俺が様子を見にきてやると(ここでアルデバランはぐすんと鼻を鳴らしながら目と顔を赤くした)カシモドじいちゃんほとんどしゃべられなかったのに俺にありがとうって一言言って眠るように死んじまったよ…」
アルデバランは両手で顔を覆った。
カミュはアルデバランに慰めの言葉も合の手も入れず,ただ黙っていた。
ただ大きな牡牛が体を震わせてウォンウォン泣いている姿をそのままにしていた。
「わるいな,カミュ。関係ない話をしちまってな。おかげですっきりしたよ。ありがとう,ありがとう」
さんざん泣いて少しは気分がすっきりしたのか,アルデバランは涙目のままほほ笑んだ。
「ところであんたも俺に用があったんじゃないのか」
「ちょっと聞きたい。あの双子座のサガは,なぜあんなに体が弱っているんだ」
「あんた,サガにあったのか」
アルデバランは赤くなった両目を丸くした。
「もともとサガは双子だったんだが,隣に住んでいる俺でさえ見わけがつかないくらいそっくりな顔の一卵性の双子とはいえ,2人は驚くほど正反対だった。体が弱いが心優しい兄と,丈夫な体だが放蕩者の弟だ。サガはいつも弟が窃盗や暴行事件を繰り返すたびに頭を悩ませていた。それであるとき,とうとうサガが弟をどこかに幽閉してしまったらしい。サガはその時病弱な体を無理に押して健康体でチンピラの弟相手に立ち向かって行ったんだ。それで結局病状がひどくなってもうずっとあのままさ」
「その…サガはもうずっとあのままでいるしかないのか?」
「かわいそうだがな。発作を止める薬をずっと服用するのが精いっぱいだ。後は呼吸器を付けてじっと寝ているしかない。ペースメーカーは入れているが,ゆっくりだが確実に体は弱っている。心臓の移植手術しかないが,適合するドナーがなかなか見つからず,あせっているらしい。体力があるうちに手術はするべきだからな」
 
 
その頃,アフロディーテは海岸に散歩に来ていた。
一人でここまで歩いて来た。
青銅聖闘士を粛清するために差し向けられたという白銀聖闘士が返り討ちにあっていたことも知っていたし,そのことで聖域が大わらわになっていることも,この時期にムウが貴鬼を連れて失踪したことも知っていた。
だけど彼女は興味がなかった。確かに自分はアテナの黄金聖闘士だが,本当はアテナにも聖域にも興味がなかった。
幼いときに適性があるからと多くの少女の中から自分が選ばれた。
ある日突然ストックホルムから遠く離れたアテネにたった一人で連れて来られた。
アテナを守るために戦えと言われたが見たこともないあったこともない誰かを守るために戦いたくない。
自分の心や命は自分のものだ。
「ここにいたのか」
カミュがビーチハウスの階段を降りて歩いて来る。
「どうしたの」
「別に…シュラに聞いたら君はここだと」
アフロディーテは口元だけで笑った。
本当はとてもうれしかった。
何気ないこととはいえ,自分を探してここまで来てくれたのだ。
「お茶でもどうだ」
カミュはアフロディーテをビーチハウスのテラス席に案内した。
カミュはテラス席に座ると,運ばれてきた甘いロイヤルミルクティーをポットから移しながら,
「君に聞きたいことがある」
カミュはあえて遠い海の地平線を眺めながら,
「青銅聖闘士の一部がこの聖域に反旗を翻していることは君も知っているだろうけど,もしその中に私の生徒がいたとしたら,君は驚くか?…いや,そういう事が現実にあったわけではない,仮定の話だ」
アフロディーテは長いまつげを何度か瞬かせて泣きぼくろのある星のように美しい瞳でカミュを見て言った。
「バラはたとえバラと言う名前でなくても美しいわ」
と,カミュの手の平に自分の手の平を重ねた。
重ね合わされた掌に互いの指が絡まった。
「これから先,何があっても貴方は貴方。私の大好きなあなたよ」
その言葉を聞いたカミュはアフロディーテの体を抱きしめてキスをした。
唇に滑らかな唇のぬくもりと腕に柔らかい体を感じながらカミュはこれから先,どんなことがあってもどんな周りが敵だらけになってもずっとアフロディーテが味方でいてくれる,海岸に荒波が押し寄せるようにこれから先自分に困難が起こっても二人で乗り越えられるなら怖くない,と思った。
               (上巻・完)

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