一輝は曲がりくねった長い滑り台を10分ばかり滑り落ちて硬い床の上に投げ出されて叩きつけられた。
しかし強靭な肉体の一輝はたいしたダメージも受けずにすぐに起き上がった。
「ここは何だ」
室内は豪華な広間になっていて奥には大きな玉座があった。
そこに座っていたのは,シルクのパジャマを着てガウンをはおった瞬だった。
「瞬!そんなところにいたのか。よかったぜ,すぐに見つかって…」
一輝はアイアコスに殴られさらに滑り台からたたきつけられた痛みも忘れて明るい顔になった。
「控えい!!ハーデス様のおん前なるぞ!!」
鋭いパンドラの声がした。
一輝はいぶかしげにパンドラを見た。
「ほぅ,あんたがパンドラ様かい。悪いけどこいつは俺の兄弟なんだ。連れて帰らせてもらうぜ」
一輝はパンドラを無視してどんどんハーデスの前に歩いてきた。
ハーデスは視線を定めないまま,葉巻をくゆらせていた。
その隣にはウイスキーの瓶と氷の入ったグラス,灰皿がある。
一輝はハーデスの口から無理矢理葉巻を指で跳ねて落とした。
「瞬,お前こんなもんばっかり吸ったら頭が馬鹿になるぞ」
一輝は視線がうつろな瞬の体を何度も揺さぶった。
すると,瞬の声で,
「はなさんかい,一輝とかいうガキ。この体を無理矢理ゆすっても無駄じゃけぇの」
と声がした。
「なっ」
東京に生まれ,現在一輝と神奈川県に住んでいる瞬は広島に住んだことはない。
しかし今の流ちょうな広島弁は何だ。
瞬がふざけているとはとても考えられない。
やはり今ここにいるのは瞬ではない誰かなのだ。
「はなせ言うたらはなさんかいこのガキ」
ハーデスは静かな声で一輝を睨みつけた。
するといきなり一輝の体がすごい力で弾き飛ばされた。
そこへパンドラが鞭を持って追いつめた。
「神をも冒涜する行為,おのれこの鞭で八つ裂きにしてくれる」
「すばろーしい!!(うるさい)パンドラ!!控ええ」
ハーデスが怒鳴ってパンドラはびっくりして引き下がった。
「ワシがこのガキを呼んだんは用があったからじゃ。お前は控えとれや」
弟の瞬の声で当然年上の自分をガキガキと言われて一輝は変な気持だったが今はそれを気にしている場合はない。
「ほう,お前が個人的に俺に用があるとはな。聞こうじゃないか」
一輝はハーデスに言った。
「ほうか。聞く気になったか。じゃあ教えたる。あのな,お前ら聖闘士のガキが地上の為になんぼいきろうがかばちたれようがの,それは無駄なことじゃ。ワシがグレイテスト・エクリップスを起こすけんのぅ」
「グレイテスト・エクリップス?」
聞いたことがない単語だった。
「ワシの力を使って太陽の周りの惑星を一直線上に置くんじゃ。じゃけん日食が起きる。それもずーっとじゃ。二度と太陽はてらんちゅうことじゃ」
つまりハーデスの力で惑星を太陽の一直線上で固定して動きを止め,地球に太陽の光が届かないようにすると言う事らしい。
太陽が照らないと一日中夜が続き,地球は大きく気候変動し,生き物の生態系も乱れるだろう。それくらいは一輝にも分かる。
「ほうじゃ。地球丸ごとがこの冥界と同じようになるんじゃ!!地球は丸ごとワシのもんじゃ」
「な,なんてこと考えるんだ」
一輝はハーデスを向いた。
「やっぱりお前には死んでもらうぜ!!」
一輝のギラギラした敵意もハーデスには通じず涼しい顔をしている。
「ふん。あんぽんたんには何いうても無駄やのう。神であるワシの命なんかとれるわけがありゃーせんわ。それに無理に攻撃なんぞしよったらワレの弟の体が怪我するだけやの」
「うっ」
一輝は踏みとどまった。
ハーデスは2本目の葉巻に火を付けた。
ハーデスが煙を吐くとげほんげほんと咳をした。
咳は瞬の声だと一輝は気が付いた。
未成年で煙草なんか吸ったりしない瞬の体でいきなり強い葉巻を何度も吸ったら喉が苦しいのはハーデスでなくて瞬なのだ。
一輝はハーデスの隣の葉巻の箱を蹴り落としてやりたいと思った。
葉巻だけではなかった。
ウイスキーのグラスもかなりなかみが減っていることからハーデスはかなりの量の酒も飲んでいる。
悪酔いするのはハーデスでなくて瞬だ。
何て野郎だと一輝は思った。
「ほんならさいならじゃ。あの世で元気での」
ハーデスは目を光らせた。
くる,と一輝は身構えた。
しかし何も起こらなかった。
ハーデス自身も驚いている。
「な,なんじゃ,体がいうことをきかん…」
ハーデスの意識が完全に体をコントロールできていないのだ。
ハーデスの体はハーデスの意思と反対して自由に動き始めた。
ハーデスの手が動き,ハーデスのほっぺたをたたいたりつねったりした。
「痛いっ痛いっ」
一輝はびっくりしてその様子を見守った。
「兄さんっ,助けてっ,苦しい」
瞬の声だ。
「瞬っ」
一輝は驚いて瞬に声をかけた。
「あ,あほな!このガキゃまだ意識もっとんのか」
ハーデスは瞬がまだちゃんと意識を持っていたことを驚いていた。
「兄さん,喉が痛い!喉が痛い!」
瞬に助けを求められてようやく一輝が我に返った。
「しっかりしろ!」
「兄さん,喉だよ,僕の喉にハーデスがいるんだよう!!」
「ワリゃッだまれっだまらんかい」
一輝は何かを決断するとハーデスに近づいた。
「瞬,口開けろっ!!」
「嫌じゃボケェ!!」
ハーデスは言い返したが,瞬の意識を持った両手が無理矢理上あごと下あごをこじ開けた。
「耐えろ瞬っっっっ!!!!!」
一輝が右腕をハーデスの口の中に突っ込んだ。
「ぐへぇ!!」
ハーデスがカエルのような声を出した。
一輝は何か異物のようなものが指先に触れた。
「これかぁ!!」
一輝はそれを力いっぱい引っ張った。
するととんでもない不気味な化け物が口から出てきた。
「おいなんだこりゃあ!!」
一輝は化け物に驚いて手をはなした。
化け物が素早い獣のごとく一輝に襲い掛かり,一輝は床の上に頭を強く打って気絶した。
パンドラは慌ててハーデスに声をかけた。
「ハーデス様,ご無事ですか」
「…ふん,こういうこともあろうかとこけおどし用の化け物を腹に入れとったんじゃあ」
ハーデスは身軽になった自分の腹をさすった。
それと同時にハーデスの髪の色が真っ黒になった。
「ははは,これで瞬の意識も完全にいんだ(消えた)の。この体はみぃんな…ワシのもんじゃ」
ハーデスは凶暴な笑みを作った。
「けど疲れたのう。パンドラ,ワシはちょっとここでひとり休むけん,ここへは誰も近付けるな,ええな。お前は下がってええ」
ハーデスはパンドラに命令した。
 
星矢は息苦しくて目が覚めた。
気が付くと星矢は土の中に頭だけ出して埋められていた。
どうやらここはどこかの畑のようだ。
星矢はまるで大根か人参のように頭だけ出して畑に埋められている。
「どこなんだよここは一体」
星矢は辺りを見回した。
何とか抜け出そうと頑張るが,土に埋もれて手足一つ動かせない。
「ようやく目が覚めたか」
星矢の頭の所に冥衣の足が見えた。
見上げるときざったらしい顔の冥闘士がいる。
「私は天哭星ハーピーのバレンタインだ。ここの畑の管理人さ」
「畑…だと?」
「見たまえ」
ハーピーが指さした。
辺りにはたくさんの人間の死体が埋もれていた。
死体にはどういうわけかきのこがたくさん生えている。
「死体を養分におおきくておいしいマツタケを作ることに成功したのさ。ハーデス様はマツタケがお好みでね。君もここでマツタケの養分になるのだ」
「うげっ」
星矢は当分きのこは食べたくないなと思った。
それよりも自分もここでマツタケの養分にされてしまう。
なんとか手足をもがいて脱出しようとするが余ほど深く土の中に埋められているらしく動けない。
「無駄だよ,君一人ではどうにもそこから出られるわけがない」
ハーピーはにやにやと笑って星矢の所から離れるとマツタケを収穫してかごを担いでいなくなった。
一人残された星矢は冗談じゃないと抵抗を続けた。
しかし土は10cmだって掘り起こせない。
星矢がどうしようかと焦っていると,
「星矢」
とこえをかけるものがいる。
星矢は首だけで振り返ると,ミロが同じように埋められていた。
「ミロ,大丈夫だったのか」
「少なくともこの状況で何とか生きられるってならな」
ミロは言った。
「よかったー!!」
星矢はとにかく一人ではないと知って安堵した。
「けど他のヤツらは完全にダメなんだ」
ミロの隣には同じようにムウとアイオリアが大根のように植えられているが,こちらは完全に気を失っている。
星矢の呼びかけにも反応しない。
「俺達がここに落とされた時散々ひどいリンチを受けてな,ここに埋められた」
「ミロは平気だったのか」
「俺か。俺はリンチ受ける前にずっと気絶したふりをしてたんだ。だから殴られずにすんだ」
「ミロらしいな」
星矢は呆れて言った。
ミロは照れ笑いした。
「へへ。…けど悔しいよな。あのときなんで気絶したふりしたんだろって…俺が動けば2人を助けられたかもしれねぇのにさ」
ミロはしゅんとした。
「でもミロまでやられてたら俺だってこうして話を聞く事もできなかったわけだし,少なくとも俺達は今2人いるわけで,俺はすごく心強い」
星矢がミロに声をかけた。
「…そ,そうだな。2人でいたってどうにもできねぇと思うけど一人でいるよりはずっとましだな」
星矢の言葉にミロは少し元気を取り戻した。
それから星矢は冥界で自分が見てきたことを洗いざらい話した。
「なんだよう,それじゃあその瞬がハーデスにのりうつられたってのか」
「そうなんだ。俺はそんなの嫌だ。あいつ俺の事なんもかもわからなくなっちゃって」
星矢はなみだぐんだ。
「泣くなよう。泣いて何とかなるなら俺だって泣きたい」
ミロは星矢に言った。
「ごめん,ミロ」
星矢は涙を拭こうとしたが手も土の中なのでそれもできない。
ますます情けなくなった。
「…それでこれからどうする。このままだと俺達マツタケの養分にされちまうぜ」
つとめて前向きになろうと星矢が言った。
「俺達だけじゃねぇ。こっちの2人もやられちまう」
「ミロ,何かいい方法ねぇか」
「手が使えないんだし絶望的だ」
「俺たちにできることと言ったらここで愚痴るだけか」
その一時間後,再びバレンタインが畑に現れた。
見ると,星矢とミロも完全に気を失っている。
「フッ,他愛のないヤツよ。もう気絶したか」
バレンタインは屈んで星矢の頭に近づいた。
そのときだった。
ミロがバレンタインの小指をちぎらんばかりに噛みついた。
「ぎゃっ」
バレンタインが指を振って逃れようとするが,ミロが必死に歯を立てて離さない。
そのすきに星矢がバレンタインの股間に頭突きをくらわした。
あまりの痛みにバレンタインはひっくり返って気を失った。
バレンタインの持っていたスコップが星矢の頭の前に落ちた。
星矢は急いでスコップを口にくわえ,土を掘り返し始めた。
星矢がつかれたらミロが交代し,また星矢が代わって…と2人は交互に口の中に土が入るのも我慢して腕が出せるようになるまで掘り続けた。
両手が出せるようになると,手でスコップを持って2人は土からお互いを掘り起こした。
「た,助かったな」
ミロがしりもちをついて座った。
「それがゆっくりもしていられねぇんだ。早くアテナに聖衣を届けないといけないんだ。ミロ,ムウとアイオリアの救出を任せていいか」
「あ,おうよ」
ミロは大事な用事を任されて背筋をシャキッと伸ばした。
星矢を先にいかした後,ミロはアイオリアのほっぺたを水木ビンタした。
ビビビビビン!!
「ふもっ」
痛みでアイオリアはぼんやりと目を開けた。
それでも視界の中にミロの顔をとどめると騒ぎ出した。
「ミロ!俺達は生きてるのか!それにここはどこなんだ!星矢達はどこだ!」
「一度に質問すんなよ。まずはお前を出してやるよ」
ミロはスコップを持った。
アイオリアはそこで初めて自分が埋められていることに気付いた。
「なんだこりゃ。指宿温泉でもあるまいし。こんなもん」
アイオリアは憤慨した。
「ミロどいてろ」
と言う。
アイオリアは小宇宙を高めた。
「うぉぉぉぉぉ!!」
アイオリアは小宇宙を爆発させ,馬鹿力で土を吹き飛ばしてしまった。
「どうやらここはさっきのあのせこい結界はないようだな」
とアイオリアは得意そうに言った。
そして,
「次はムウを引っ張り出してやらないと」
と言った。
アイオリアはムウが埋められている所まで歩いてくると,いきなりムウの首をつかんだ。
「バカ!首が抜ける!」
ミロの言葉を無視してアイオリアはムウの肩をつかみ,そのまま大根かかぶのように引っこ抜いてしまった。
まだ意識がはっきりしないムウをゆすって起こした。
ようやくムウが目覚めたところでミロはアイオリアとムウに星矢からの話を教えた。
「じゃあさ,それってやばいんじゃね?星矢が一人で行ったって相手はハーデスだぜ?」
アイオリアが言う。
「私達も行きましょう」
ムウが言った。
 
 
 
ハーデスはガウンの上からひざ掛け毛布をかけて一人昼寝をしていた。
コトンコトンと冷たい足音がしてハーデスはまどろみから目覚めた。
「…誰じゃ」
「時間ですよ」
「ん?飯の時間か?」
ハーデスは目をこすって目の前を見た。
そこには知らない黄金聖闘士がいた。
「誰じゃあワレ」
「私は黄金聖闘士乙女座のシャカです」
シャカはにこりとあいさつした。
しかし今日のシャカは初めから両目を見開いている。
「私はアテナにお供してずっとあなたを探していたんですよ。確かあなたのお体はエリシオンにあったはずなのにエリシオンの方にあなたの気配はなく,なぜか地の底深くにあなたの気配を感じたのでこっちにやって来たんです。いやいややっと会えてよかった」
「ふん,それでワシに何の用じゃあ。ワシは昼寝を邪魔されてぶち機嫌が悪いんじゃ」
ハーデスは昼寝を邪魔されて不機嫌そうだ。
「他でもありません。あなたの死刑執行の時間を知らせに来たのです」
「ワシが死刑じゃあ?おもろいこというの」
「その通り,さあ死ぬ前に懺悔をしなさい。私は坊主ですから」
シャカが言う。
そのとき,
「待ちなさい!」
と威風堂々たるそれでいて高貴なアルトが響いた。
同時に扉の外にとてつもなく巨大な小宇宙を感じる。
ハーデスは嫌な予感がした。
扉が開いてはいってきたのはアテナだった。
「シャカ,ハーデスを攻撃してはなりません。ハーデスは自分の体はエリシオンに保管して自分は瞬の体を使っているだけです。このままこの体を攻撃したって瞬が怪我をするだけで,ハーデスは次の体に乗り移るだけです」
「ご高説いたみいる,じゃの」
ハーデスはフフンと笑った。
「ならどうすればいいのですか」
「ここは私にまかせなさい」
アテナはシャカを押し戻して自分だけハーデスの所へ歩いてきた。
そしてハーデスの前に手をついて,
「この通り,お願いします。どうぞあなたの力でグレイテストエクリップスを止めて下さい」
と頭を下げた。
「アテナ!」
アテナが頭を下げるなんてとシャカはびっくりした。
ハーデスは黙って座っていたが,
「なんじゃあ。神話の時代からもう何千年も争ってきたワシらじゃ。それがいきなり頭をさげられるけんワシもびっくりして座りションベンもらすとこじゃあ」
と言った。
「けどのう,もう遅いんよ。グレイテスト・エクリップスはもう始まってるんよ。もう誰にも止められん」
ハーデスは余裕しゃくしゃくだ。
 
 
その頃,地上では太陽が少しずつかけてくる,日食が起こっていた。
貴鬼はファラオとサッカーボールを蹴って遊んでいたが,見たこともない現象にびっくりした。
「た,太陽が変だよ」
ファラオは何か思い当たることがあるらしく,
「きっとあれはグレイテスト・エクリップスだと思う」
と言った。
「それは何だい。お前何か知ってんのかい」
シャイナが小耳にはさんでいた。後ろに魔鈴も腕組みしてそこに立っている。
「うん,僕もよく知らないんだけども以前ジュデッカの広間でパンドラ様が話していたのを聞いていたんだ。ハーデス様が惑星を動かして地球がすっぽり隠れるようにして太陽の光が当たらなくするんだって」
「そ,そんな大事なことを何で黙ってたんだい!!」
「ひっ,ごめんなさい」
シャイナに怒鳴られてファラオはびっくりした。
すると魔鈴が,
「落ち着きなよ,シャイナ。この子だってそんな恐ろしい事だとは気付かなかったんだろう。それよりもその日食をやらかすことがハーデスの眼目だったのかもしれないねぇ。これは大ごとだよ」
 
 
 
 
場面は再びジュデッカの広間だ。
「お願いします。地上の人たちを助けてくれるなら何だってします」
アテナはなりふり構わず必死に頼み込んだ。
ハーデスはその様子をにへらにへらと見ていたが,何かを思いついたらしく自分の顎をさすった。
「ほうじゃのぅ。お前の命と引き換えっちゅうんなら考えてもええわ」
「…なんということを!!アテナ,そいつはやっぱり言ってきくような玉ではありません!!」
シャカが叫んだ。
しかしアテナは無視した。
「分かりました。私の命一つで地上が救われるのなら」
シャカはびっくりしてアテナの背中を見ていた。
「へへ,ほら殊勝な心がけじゃ。けどすぐにはお前は殺さん。先にその小生意気な有髪の坊主からじゃあ!!」
ハーデスは椅子の横に飾りとして置いてあった飾り物の槍を手に取った。
「待って下さい!!」
アテナがあわてて間に入る。
「彼をやるくらいなら先に私をおやりなさい」
「ほんじゃあ2人丸ごと串刺しにしてやるけん!!」
ハーデスが槍を投げようとした時,ものすごい力でアテナの手がハーデスの手首を押さえていた。
「…ワシが,ワシが,こんだけ頼み込んでもいかんちゅうんかぃ…」
シャカがはっとした。その言葉はアテナの声だったからだ。
アテナの声は普段から品があり落ち着いていて女性にしては低いが,それでもさきほどの声はさらに低い,そしてどすのきいた声だったがアテナの声に違いなかった。
手首を押さえられ,どすの利いた声でせまられてハーデスの表情に初めて怯えが見えた。
アテナは静かに言い放った。
「ナメとったらおどりゃあ本気でシゴウするど」
アテナはその手でハーデスの喉を閉めた。
シャカはびっくりして口をあんぐり開けていた。
しかしすぐにシャカは気が付いた。
どうやら城戸沙織は本当に戦女神として覚醒したのだ。
恐ろしい攻撃的小宇宙を放ってハーデスの首を絞めている。
それと気になっていたがハーデスの広島弁だが,どうやら広島弁はハーデスのみの特徴ではなく,神々の標準語がたまたま広島弁だったようだ。
それが沙織がアテナとして覚醒することによって本来の広島弁が出たようだ。
「苦しいじゃろう!!苦しいじゃろう!!苦しかったらはよう瞬の体から出て行かんかい!!」
どうやらアテナは絞め殺さない一歩手前という微妙な力加減でもってハーデスを瞬から追い出そうとしているようだ。
苦しみだしたハーデスの体から真っ黒なエクトプラズムのようなものがぽわーと出た。
あれがハーデスの魂らしい。
「く,苦しくてたまらんっ,一時撤退じゃ!!」
エクトプラズムは玉座の奥へ飛んで行った。
「待たんかい!!」
アテナはそのあとを追いかけた。
シャカは急いでアテナの後を追った。
 
 
一時間後,ようやく星矢がハーデスの間に到着した。
ところが部屋は荒れて散らかっており,さきほど星矢が見た光景と違っている。
その壊れた椅子の下で瞬が倒れていた。
ここにいるのは本当に瞬なのかハーデスなのか星矢は怖くないこともなかったが,勇気を出して瞬に声をかけた。
「星矢?星矢なんだね」
広島弁ではないようだ。
ほっとして星矢は瞬と抱き合って再会を喜んだ。
「星矢,沙織さんがハーデスを追いかけてこの部屋の奥に行ったんだ」
「えっ,もう沙織さんはここに到着していたのか」
星矢を先頭に奥の部屋へ行く。
するとそこには廊下が続いているようだ。
「この先を通って行ったのかな」
と瞬。
星矢は蛍光灯の明かりが少ない廊下を警戒しながら歩いた。
どこに続いているのかは分からなかったが,ありがたいことに廊下は一本道だったので星矢と瞬はほどなくして行き止まりの到着地点にたどり着いた。
目の前に高さ10メートル幅40メートルはある大きな壁が2人を引きとめた。
不思議なレリーフが彫ってあって文字のようなものが見えるがよく分からない。
「沙織さんはここを通って行ったんだろうな」
「けど星矢,この壁にはドアも窓もないよ。どうやって行ったの」
星矢と瞬は壁をトントンと叩いた。
厚さは1メートルはあるだろう。
「もしもーし沙織さーん」
星矢は叩きながら声を上げた。
「無駄だよ」
背後から甲高い声がして振り返ると頭から血を流し,両手をつきゆびしたシャカがふらふらになって立っていた。
「シャカ,無事だったんだ!」
星矢と瞬は大喜びでシャカに抱きついた。
星矢は瞬に言われて建物の中の医務室から消毒薬と包帯と抗生物質を持ってきた。
来る途中で星矢はスナック菓子とコーラを失敬した。
それから瞬と星矢は二人がかりでシャカのつき指の手当てをして抗生物質を飲ませ,スナック菓子とコーラで休憩した。
シャカは自分がアテナとともに行動していてハーデスを追い詰めたものの逃げたハーデスを追っかけてアテナが壁の向こうへ行ったことを話した。
「この壁はどんなことがあっても人間には壊せん。まさしくこれは神のみが越えられる嘆きの壁だよ」
「シャカにも壊せなかったんだ」
瞬ががっかりした。
「そうだ。この私のぶつけた小宇宙をことごとく跳ね返された私はこのざまだ」
「それじゃあ俺達はここを超えられないってことか。じゃどうやって沙織さんにこれを届ければいいんだろう。せっかくここまできたのに」
星矢は悔しそうに口をかんだ。
そのとき,携帯電話の着信音が鳴った。
鳴っていたのは瞬が持っていた冥界専用の携帯電話だった。
誰からか分からない非通知着信に不安がる瞬に代わりに星矢が電話に出る。
『星矢』
「沙織さん?」
電話の声はアテナだった。
「今どこにいるんだ?」
『星矢,瞬,それにシャカ。勝手に飛び出してすみませんでした。私はハーデスを追ってエリシオンに行きます。そこでハーデスを追い詰めて始末します。私一人で行って迷惑をかけてすみません…』
星矢が何か言うのも待たずに沙織は用件だけしゃべって電話が切れた。
「やっぱり沙織さんはこの壁を越えたんだね?」
瞬の質問に星矢は首を縦に振った。
「だったらなおさらこの聖衣を届けなきゃ」
「そうだね。聖衣なしでしかも沙織さん1人で行かすわけにはいかないよ」
瞬が言った。
「なんとか壁を壊せねぇのか」
星矢が悩んでいると,
「なんや,自分らうまそうなもの食ってるな」
と明るい声がした。
天秤座の童虎が立っていた。
童虎は開けさしの『おさつどきっ』の袋をひろって食べ始めた。
「その壁はなぁ,人間がどんな能力でやっても無駄やねん。なんぼ小宇宙を増幅させようが力任せにしようがびくとも動かんようになっとるねん」
童虎は口を動かしながら言った。
「ほいでもな,ただ一つだけあける方法があるねん」
童虎が言った。
三人は童虎の顔にくぎ付けになった。
「太陽の光を当てるねんて」
「太陽の光?こんな冥界の最下層にですか」
シャカが聞いた。
「そや。不可能なんや。だからこれは嘆きの壁や」
童虎が言った。
「老師!」
童虎の後ろから誰かが近付いてくる。
「ムウ!アイオリア!ミロ!」
星矢は嬉しくなって手を振った。
今までずっと目を閉じて生活していたシャカだったので,はじめて見る仲間の顔にどれがムウでどれがアイオリアでどれがミロか知らなかった。
それでも3人の中で一番背が低く,穏やかそうな顔をしたのがムウだと分かった。
初めて見るムウの姿形にシャカは,ムウの事を今まで自分の想像していた姿よりも少しふっくらしているけれど,思ったよりずっと可愛らしい顔だと思った。
「…あ,その…君の顔は初めて見るな」
シャカはしどろもどろと言った。
「…思ったより美人だ」
「ふふ,あなたの青い目も素敵ですよ」
ムウもシャカの目を見るのは初めてなのでそう言った。
ピアスの付いたシャカの両耳が赤くなっているのに瞬は気付いた。
心強い味方はそれだけではなかった。
「おーい,誰かそこにいるのか」
廊下の向こう側から聞き覚えのある声がする。
「紫龍だ!!」
瞬は慌てて迎えに行った。
紫龍と氷河も到着した。
「先を越されたな」
紫龍は感心したように言った。
とりあえずこれでめんつは揃った。
「それで太陽の光ってどうやって当てるんだよ。どう考えても無理じゃねぇかよ」
アイオリアがブツブツ言った。
「…いや,ちょっと待て。方法があるで」
童虎が言った。
「えっ」
一堂が明るい顔をした。
「ワシらの聖衣や」
童虎が言った。
「ワシらの黄金聖衣の星座は黄道十二宮で太陽の周りをぐるぐる回る。ということはこの黄金聖衣は太陽の光をいっぱい浴びとるいうこっちゃ。それでな,黄金聖衣を着たワシらが小宇宙を最大限まで燃やして太陽の光と同じものを作り出すねん」
「すげぇそれすげぇじゃん!」
ミロが叫んだ。
童虎が4人の黄金聖闘士にライブラの武器を持たせた。
アイオリアは槍,ムウは剣,シャカはクラブ,ミロはヌンチャクを持った。
「ほんならいくでー」
童虎の掛け声とともに黄金聖闘士は小宇宙を燃やした。
辺りが昼間のように明るくなり,まぶしい光に包まれた。
「すごいよ,星矢!」
瞬は星矢の袖をつかんではしゃいだ。
「ああ,これならきっとうまくいく」
星矢も確かな期待を持ってその様子を見ていた。
ところが,燃え上がった光は壁に向かって突き進んだが,屈折してこちらに帰ってきた。
「ええっ」
瞬と星矢は慌てて避けた。
跳ね返された光は黄金聖闘士達を直撃した。
「…そんなぁ」
望みを断たれた瞬はへなへなとへたり込んだ。
星矢も悔しくて拳を振りまわした。
「イテテテ」
ミロは腰を押さえてうずくまっていたし,ムウも動けないし,シャカも絶望的な表情だ。
童虎も自分の作戦が失敗して茫然としている。
「せめて,せめてワシらが十二人おったらええねんけど」
体力のあるアイオリアはどうにか立ったままだったがなぜか泣いていた。
跳ね返された痛みからではない。
悔しいのだ。
苦しい思いをしてここまでたどりついたのにもうなすすべもないなんて。
「…うぅなんでだよ。こんなのあんまりじゃん」
アイオリアの流した涙が首から下げた宝物の御守りにかかった。
するとお守りがまるでフラッシュライトのように光った。
「…なんだそれは」
ミロは痛いのも忘れてアイオリアの御守りを指差した。
お守りはさらに光を増幅させ,お守りはレーザー光線のような光を出し,その光はどこか大空へ延びて行った。
一体何が起こったのだ。
一同はその光を痴呆のように眺めていた。
その光は空高く伸び,天に向かって走る。
光は地上の大空を飛び,真昼の空に流星のごとく伸びて行く。
そのさまは地上にいる聖域の者たちにも見えていた。
光は聖域上空で瞬くと,無人の人馬宮に落ちていった。
聖域にいる白銀聖闘士や青銅聖闘士や職員はかたずをのんでみていた。
すると,ふわりふわりと人馬宮の屋根から何かが浮かび上がった。
射手座の黄金聖衣だ。
聖衣の箱は上空に上がり,ふしぎな音を立てた。
すると,それに反応するように他の宮にあった黄金聖衣の箱が動き始めた。
金牛宮からは牡牛座の聖衣が,巨蟹宮からは蟹座の聖衣が,魔羯宮からは山羊座の聖衣が浮上し,最後に宝瓶宮からは水瓶座と魚座の聖衣が揃って現れた。
全ての聖衣が揃うと,それらは一斉に雲の中に消えた。
 
 
その頃,冥界ではラダマンティスとカノンはいまだにらみ合っていた。
アイアコスを失ったショックでミーノスは気絶してしまったからだ。
2人はじりじり動きもせず,向かい合っていた。
そのとき,カノンの着ている双子座の黄金聖衣がおかしな音を立てた。
カノンはびっくりしたがすぐに分かった。
「そうか,兄貴が帰って来たんだ。分かったぜ」
いきなりカノンは聖衣を脱いだ。そして,
「今まで俺の事守ってくれてありがとな。お前は兄貴の所へ帰ってくれ」
と言った。
すると,聖衣は双子座のモチーフになって,どこかへ光のごとく飛んで行った。
カノンは聖衣を脱いだので普段着のスカジャンにTシャツ,それにすねの破れたジーンズにスニーカーだ。
「お前バカだな。丸腰で俺と戦うつもりか」
ラダマンティスは鼻で笑った。
「…だが」
ラダマンティスはなんと自分も冥衣を脱いで赤いニットのパーカーとジーンズとエンジニアブーツの普段着になった。
「俺も同じバカ野郎だがな!」
カノンとラダマンティスはお互いニヤリとした。
「今からが本当の生身の男同士の戦いだ」
2人はボクシングの構えを取って向き合った。
「行くぜ!」
「とどめだ!!」
ラダマンティスはカノンの顔に重いがしかし早いストレートパンチを撃った。
カノンは脳震盪を起こして硬直してしまった。
「ど,どうだ…」
動かなくなったカノンにラダマンティスはにやにやとした。
ラダマンティスが勝利をおさめたのだろうか。
すると,拳の向こうからカノンの声がした。
「…今のは結構きいたな」
ボカッ。
「うぐぅっ」
カノンのアッパーがラダマンティスの心臓をぶち抜いた。
「…な,なんて野郎だ」
ラダマンティスはぐったりと膝をついた。
「お前のグレーテストコーションには決定的な弱点がある。両手をつきだした瞬間に体ががら空きになる。お前の動きが早いから普通のヤツには見切れねぇ。だから誰も弱点には気付かなかったって事だ。俺以外にはよ」
「そ,そうか。やっと分かった」
ラダマンティスは血を吐きながらカノンを見上げた。それも笑いながら。
「…だが,…悪い気はしねぇな…まさしくお前は最強のチンピラだな」
ラダマンティスはそう言って倒れた。
その隣でカノンは案山子のように立っていたが,やがて重なるように倒れた。
「…へへ。兄貴,後は任せたぜ」
カノンは目を閉じた。
 
 
 
 
 
嘆きの壁の前ではさらに信じられないことが起こっていた。
彼らの上空,壁の天井に聖域から飛び立った黄金聖衣と,少し遅れて双子座の黄金聖衣が現れたのだから。
そしてそれらの聖衣はまぶしい光とともに分割された。
その光に一同は目を覆った。
次に見たときには,信じられないことが起こった。
聖衣をまとったアルデバラン,サガ,デスマスク,シュラ,カミュ,アフロディーテがいたのだから。
そして最後にアイオリアの御守りから光が伸びてきてその背後から歩み出てきたのはアイオリアの兄,アイオロスだったのだ。
アイオロスはアイオリアの方に向かって手を広げる。
「アイオリア!!こんなに大きくなって。兄ちゃんだぞ!!」
「兄ちゃん!!」
アイオリアはたまらず叫んで兄の両手の中に飛び込んだ。
そしておいおいと泣いた。
「…うぅ,兄ちゃん」
「えらかったぞ,アイオリア。兄ちゃんはいつもお前の事を見ていたぞ」
アイオロスは死後もその魂はアイオリアの胸の御守りに宿り,可愛い弟を見守り続けてきたのだった。
「よくここまで1人で頑張ってきたな」
アイオロスはやさしくアイオリアに声をかけた。
「…兄ちゃん,俺は一人で頑張ってきたわけじゃない」
アイオリアは言った。
「星矢達が俺を助けてくれたんだ」
「そうか」
アイオロスは星矢達の方を振り返った。
「ありがとう…星矢。俺からも礼を言わせてもらうよ」
「い,いや…俺達だってアイオリアに助けられたことが何度もあるんだ」
星矢も言った。
 
その頃,ムウはアルデバランの胸に飛び込んだ。
「アルデバラン!!会いたかった。私さびしくてどうしようかと」
アルデバランはこれまでのいきさつをまくしたててしゃべるムウの声をただにこにこしてきいていた。
「違う,違うの」
ムウは自分でしゃべっておいてあわてて首を強く振った。
「私はこんなことが話したくてしゃべってるんじゃないんです」
ムウは顔を真っ赤にして口の中でブツブツ言ってそれをのみこんだ。
「あのっ,私,ずっとずっとあなたのことが好きだったんですっ。優しくて強いあなたが…でもそのこと恥ずかしくてずっと言えなくてあなたに嫌われたらどうしようか怖くて」
ところがストレートのアルデバランはムウの必死の告白にも意味が分からず,
「そうか,ありがとう」
と明るく言った。
「もうっ,そうじゃないんですっ」
ムウは泣いたり笑ったり顔をくしゃくしゃにしてえいっと決断をして背伸びをしてアルデバランのほっぺたにキスをした。
アルデバランはびっくりしたが,
「ありがとう」
とほほ笑んだ。
ムウの言いたいことは100%はアルデバランには通じていないかもしれない。
ムウの独り相撲にさえ見える。
それでもアルデバランの顔はほころんでいたのを見てムウはもう何も言えなかった。
その様子を見て複雑な表情をしている者がいる。
シャカだ。
瞬があわててシャカをぐいぐいムウの前へ押し出した。
ムウとアルデバランは何事かとシャカを見ている。
シャカは二人に注目されて今まででみたことのないような困った顔をしてうつむいていた。
「シャカ,しっかりして。男らしく!!」
瞬が声をかけた。
「…その,私だって君を…」
ムウは気が付かなかったというように目を丸くしたが,すべてを包み込むような優しい笑顔で微笑んでから,アルデバランにしたときと同じようにシャカのほっぺたにもキスをして,
「みんな大好きです」
とほほ笑んで片手でアルデバランの肩に手を伸ばし,反対側の手でシャカの肩をさわった。
シャカの顔は柿のように赤くなった。
 
 
紫龍はシュラとデスマスクと話し込んでいた。
「おめぇ生徒会長だって?すげぇな」
デスマスクが紫龍に感心した。
「それは当然だ。紫龍は俺に似て優秀なのだからな」
「へっ,何がお前に似てだよ。もともと紫龍は頭いいよ」
「いや,俺もあなた方との戦いで知恵や知識を身につけたのだ。お二人に本当に感謝しています」
紫龍は礼を言うと,
「なーにがおふたりだよ。ただのやくざと絵描きじゃねぇか」
とデスマスクが笑った。
「それもそうだな」
と,シュラも声を立てずに笑った。
 
 
そして,氷河とミロはカミュと向き合っていた。
カミュはアフロディーテと手をつないでいて,たがいの長い髪の一部を編みこんでいた。
もう,2人は決して離れ離れにならないのだ。
それを見てミロが,
「ほんとにお前らお似合いだな」
と言った。
「俺もたくさんの彼女を持って遊んだりせずにお前のように大切な彼女を一人っきり作ればよかった」
とミロはうらやましそうだった。
「氷河,少し見ない間にまた大きくなったんじゃないか」
カミュは空いている方の手で氷河の頭をなでた。
「いや,俺はまだまだです。カミュ」
氷河は照れ臭そうに言った。
「いいや,確かにお前はもう私を超えている。
私にはもう教えることなどない。1人でも十分やっていける。自分に自信を持ちなさい」
とカミュは上品な笑顔で言った。
「あの…」
氷河はアフロディーテにいきなり頭を下げた。
「わが師をよろしく頼みます。これからもずっと…わが師のそばにいて…お願いします。これからはわが師には自分の幸せの為に過ごしてほしいんです」
「…氷河」
カミュがびっくりして氷河を見た。氷河もまた,カミュの幸せを願っていてくれたのだと思うとカミュのクールなはずの胸はとても熱くなった。
「…私こそカミュから離れられないもの。だから…安心して。私がカミュを不幸になんかしたりしないから」
アフロディーテは氷河にそう言ってから瞬に声をかけた。
「…あなたはとても優しいわ。か弱い人に手を上げることはとても辛いと思うの。でも時にはそれがあなたの弱点になる。本当に自分の信じることの為なら相手が誰でも遠慮なく吹っ飛ばした方がいいわ」
瞬は心の奥を見透かされたように赤くなりうなずいた。
星矢はサガに声をかけた。
「今,胸は苦しくないのか?」
「はい。お薬がなくても私はもう大丈夫ですよ,星矢」
「実は俺,あの薬1個だけ飲んだんだ。瞬は飲んじゃダメだって言ったけど,敵に攻撃されて心臓がどうしても痛くて飲んだら,体はすごく楽になったけど,頭の中がすごく嫌な考えばかりするようになってなんだか色んなことにイライラして…自分じゃないみたいになって暴れて…びっくりした。怖かった。いまさらだけどサガも同じ気持だったんだって思った。サガも本当は自分がおかしくなったとき怖かったんだろ」
「星矢…」
サガは感慨深げにため息をついた。
「兄貴!!」
サガとそっくりな声がした。
スカジャン姿のカノンだ。
カノンも死しても魂になってこの場に駆け付けたのだ。
「待たせたな,兄貴」
「カノン」
「兄貴が元気そうでよかったぜ」
「私の無事を喜んでくれるんですか」
「当たり前だろ。俺の兄弟じゃんか」
「私を許してくれるんですか」
「許すって?許してほしいのは俺の方だぜ。病気の兄貴にいつだって迷惑ばっかかけてグレまくって暴れて…俺は悪い弟だった」
「カノン…」
サガは涙を流してカノンと抱き合った。
カノンは照れ臭そうにヘヘヘと笑う。
兄弟愛は素晴らしいと星矢は思って見ていた。
「ところで」
アイオリアを抱いたままアイオロスが言った。
「我々がこうして集まったのは,他でもない,一つの目的を成し遂げるためだ」
「目的?」
アイオリアが鼻水をすすってアイオロスの顔を見た。
「俺たち黄金聖闘士12人で嘆きの壁を破壊する」
「そうか!!十二人分の黄金聖闘士の小宇宙が一か所にあれば!!」
童虎が手をぽんと叩いた。
「そうだ。十二人の小宇宙を最大まで高めて俺の矢に集める。それをこの壁に向かって放つんだ」
アイオロスが言った。
「…たいした作戦です。やはり君には敵いませんね」
サガが言った。
「そうときまればこんな壁ブチ壊そうぜぇ!!」
カミュと再会してすっかり元気になったミロが言った。
「それはいいとして…ミロ,お前も本当にその作戦で構わないのか?」
カミュが深刻そうな顔でミロに言った。
「えっ何で」
「何でって…分からないか?ここにいる黄金聖闘士が全員で小宇宙を高めてこの壁を破壊する。壁が破壊されると言う事はその爆発力で全員吹っ飛ぶんだぞ。私もアフロディーテもすでに死んでいるから関係ないが,お前やムウやアイオリアやシャカは生きている生身の体だぞ。そうなれば確実に死なねばならぬ」
「…うっ」
ミロは現実を聞いて体がすくんだ。
「し,死ぬのかよ,俺達も」
それを聞いてムウもアイオリアもシャカもはっとした。
これはとても重い話だった。
確実に死ぬと分かっていてあえてこの壁を破壊しなければいけない。
そうしなければ地上は救われない。
ミロは一瞬だけ,ほんの少し,黄金聖闘士になった事を後悔した。
普通の家庭に生まれ,そのまま普通に学校に通い,普通の会社員になる生活のほうがよかったのではないか。
そうすれば命をかけて散華することもなかった。
しかし仮にミロが黄金聖闘士にならなくても聖戦は始まり,グレイテスト・エクリップスは発生しただろう。
どちらにしても地球はハーデスの手に落ちて滅亡する。
それならばやっぱり自分が黄金聖闘士になって多少たりとも抵抗した方が後悔もせずに済む。
「うぉっし!!決めたぜ,俺たちゃ,あの世まで一緒だ」
ミロはカミュを指差して言った。
いつも逃げ足が早く,死ぬのはごめんだと言っていたミロが一番に名乗りを上げた。
一同はびっくりした。
するとムウが,
「私も…私もアルデバランにもう取り残されるのは嫌なんです」
と,アルデバランの隣に立った。
するとシャカが,
「待ちたまえムウ。君だけを危険な目にあわせるわけにはいかぬ。この私が付いていてやろう」
そう言ったシャカはつかつかとムウの隣に立った。いつもの強気で高慢なシャカに戻っている。
「兄ちゃん,俺も兄ちゃんを手伝うぜ!!」
アイオリアがアイオロスの肩をつかんだ。
「おう!地獄の果てまで付いて来い,アイオリア」
元気いっぱいのアイオリアにアイオロスも元気いっぱいでこたえてやる。
「フッ,そういうわけや」
童虎がきざっぽく笑った。
おそらくこのきざな笑顔に241年前,シオンもほれたというのだろう。
「そういうこっちゃから自分ら青銅はひとまずどいとけ」
「どういうことです」
紫龍はあせった。
「ワシらはこれから十二人で一斉に小宇宙を高め,この壁を壊すねん。そないなったらすごいエネルギーや。お前らはいったんのいとれ」
「しかし」
「しかしも明石焼きもあるかい。ええか,お前らには大事なお役目があるねん。それをこなさなあかんのやぞ」
「…そうだ,この聖衣をアテナに届けるんだ」
星矢が言った。
「嘆きの壁の向こうの先に行けたとしても普通の人間はどんな人間でも絶対にその先には行かれへん。けどな,自分らぁはその聖衣にアテナの血がついとる。それがある限り迷うことなくたどり着けるわ」
星矢達は青銅聖衣にシオンがアテナの血を付けてくれた事を思い出した。
全てはこの時の為だったのだろう。
「分かりました」
紫龍がうなずいた。
「そうか。ほんならな」
童虎は言った。
星矢はアイオリアを見た。
「星矢,そんな悲しそうな顔するなよ。俺やっと兄ちゃんと再会できたんだぜ。もっと喜んでくれよ」
とアイオリアは精いっぱいの明るい声で星矢に手を振ってくれた。
ムウは,
「星矢,もしあなたが無事に生きて帰って来れたら貴鬼の事お願いしますよ」
と言った。
ミロは,青銅聖闘士達に,
「歯磨けよ!!風邪ひくなよ!!宿題やれよ!!風呂入れよ!!またなー!!お前ら!!!」
と笑顔で手を振った。
その隣でカミュは何も言わず優しい笑みをたたえている。
青銅聖闘士達は涙を流していた。
足が動かなかった。
紫龍は涙声で,
「…さぁ行こう」
とこえをかけた。
「ううっちっくしょう!!」
星矢は泣きながら出口に向かって走った。
瞬も,氷河も泣きながら必死に走った。
 
「みんな,アイオロスを囲め!!」
童虎が他の若い黄金聖闘士達に命令して,全員がアイオロスを取り囲んだ。
それを合図としてカノンの魂がサガの魂と一つになった。
「兄貴!!俺達の力をみんなに見せつけるんだ!!」
「なんだろー,すげーワクワクするよ」
ミロが誰にともなく言った。
「俺もだ。なんかお祭りの始まる瞬間みたいだぜ」
アイオリアが言った。
アフロディーテがムウに声をかけた。
「ムウ」
びっくりしてムウがアフロディーテを見た。
「…あの,あなたの事太ってるなんて言ってごめんなさい」
アフロディーテはペコンと頭を下げた。
「…アフロディーテ」
「カミュに言われたの。どんなに相手に腹を立てても相手の外見を悪く言うのはいけない事だって」
「…こちらこそあなたの事を痩せぎすだなどと言ってしまって私もどうかしていました。あなたは誰が見てもうらやましいくらい美しいお嬢さんですよ」
ムウも謝った。
「なかなおりしたのかい」
デスマスクがムウとアフロディーテの顔を見て言った。
「そうです。アテナの為に地上の為に今は停戦します」
ムウが言って,アフロディーテも小さくうなずいた。
「それはいいことだ。言い争いからは何も生まれない。私達が一人一人の心がばらばらではとてもこの壁は壊せないのだから」
とカミュは優しく言った。
ムウとアフロディーテが仲直りしたところで今一度十二人の黄金聖闘士はアイオロスを中心に集まった。
11人が手をつないで円陣を組んでアイオロスを取り囲む。
金色に輝く小宇宙の炎が太陽の光のように燃え上がった。
アイオロスは弓を番えた。
「今一度,今一度,言わせてくれ。若き青銅の少年達よ」
そして十二人が一斉に唱えた。
「地上の愛と正義の為我らはいく。
命と魂のすべてを注ぎ込んで
今こそ燃えろ黄金の小宇宙よ!!」
「アテナ!!!!!この暗黒の世界に一条の光明を!!!!!」
アイオロスが手を離した。
カタパルトのように射出された黄金の矢は,嘆きの壁の天井に向かって真っすぐに伸びた。
辺りは真っ白な光に包まれた。
その直後で地球上すべてを揺らすような大地震が起きた。
 
 
少し離れた場所で,星矢達はうずくまって爆風に耐えていた。
風が収まってから,最初に顔を上げたのは瞬だ。
「みんな見て!!」
瞬が前方を指差した。
あの嘆きの壁が粉々に崩れ去り,その向こうに深淵の闇が口を開けている。
「すげぇ…あれだけびくともしなかった壁が…」
星矢はあんぐり口を開けた。
「でもわが師は?みんなは?」
氷河が心配そうに言った。
すると,十二体の黄金聖衣だけがそこにキラキラと光って残されているだけだった。
「わが師が…わが師が!!」
氷河は慌てて泣き叫んだ。
三度もカミュと辛い別れをしたのだ。
無理もない。
「氷河,落ち着くんだ。泣くのはすべてが終わってからだ。今は時間がない」
紫龍がそっと言った。
氷河は紫龍だって童虎がいなくて辛いのは同じだと気が付いて言う事を聞いた。
「よーしそうと決まったらとっととエリシオンへ行こうぜ!!誰が一番に着くか競争しようぜ!!」
星矢が涙声のまま怒鳴った。
「一着の奴に他のヤツらがマクド食い放題おごるってのはどうだ!!」
と星矢は条件を出した。
「…俺は食べ放題は好きではないが」
紫龍が言った。
「俺はモスの方が好きだが」
と氷河。
「僕はケンタッキーが食べたい。刺身はもう飽きたよ」
と瞬。
瞬に乗り移っていた頃,ハーデスは刺身とお寿司ばかり食べていたらしい。
いくら好き嫌いのない瞬もさすがに魚ばかりに嫌気がさしていた。
「なんでもいいじゃん。とにかく競争だー!!」
星矢の声と供に青銅聖闘士達は一斉に走り出した。
黄金聖闘士達が命と引き換えに作ってくれた道を進む。
地上の平和と大切な未来をそれぞれの背に背負って彼らは行く。
 
 
 
その頃,一輝はようやく意識を取り戻して再びジュデッカの付近まで戻ってきた。
一輝はそのときひとのけはいを感じて身構えた。
そこにいたのはネグリジェを着たミーノスだった。もちろん人形もお揃いの物を着ている。
具合が悪くて寝込んでいるのに無理に出てきたと言った様子だ。
顔色も悪く,目の周りにクマができていて,泣きはらした真っ赤な瞳をしていた。
一輝はミーノスの体から攻撃的威圧を感じないので警戒をとくことにした。
「…フェニックス」
どうやらミーノスは一輝を探していたらしい。
冷たい床の上を裸足のまま,立っている。
ミーノスは人形をぎゅっと抱きしめて,
「…アイアコス,…ラダマンティス,…死んだ。…生きている…ミーノスだけ」
と言った。
「聖闘士…嫌い。…アテナの聖闘士だから。…でもハーデス様…もっと嫌い。ハーデス様言う…ミーノス達死んでもかなしくない」
一輝はなんだか一人残されたミーノスがかわいそうになって,
「お前も大変だったな」
と言った。
ミーノスは人形のパジャマの中に手を突っ込んで鍵と小さなカードを一輝に出した。
一輝は鍵とカードを受け取った。鍵はどうやらジュデッカのすべてのへやのマスター鍵のようだ。
しかしこちらのカードは何だ。
「パンドラ様……言ってた。そのカード使って……エリシオン行ける。ミーノス…使い方…知らない…フェニックス…行って…エリシオン…ハーデス様…を…アイアコス…ラダマンティス…かた,かたた…」
「かたきをとる?」
「そう,かたきとる。ハーデス様…やっつけてかたき…とって」
ミーノスの両目にはうるうると涙が溢れていた。
「分かった」
一輝は言った。
しかしまずは一輝はミーノスを部屋まで連れて返した。
ベッドに入ったミーノスを一輝は布団をかけてやり,人形もベッドの横のおもちゃの小さなベッドに寝かせてやった。
一輝は昔瞬をやさしく寝かしつけてやったようにポンポンとミーノスの頭をなでた。
「…フェルメールも」
と,ミーノスが人形を指差したので,同じように人形の頭もなでてやった。
「ありが…とう。フェニックスが…お兄ちゃんなってくれた」
ミーノスが寝てしまったのをちゃんと確認してから一輝は部屋を出た。
ミーノスは使い方を知らないがカードがあれば人間でもエリシオンへ行けると言う。
一輝はジュデッカの中を一部屋ずつ調べててがかりを探した。
問題の部屋は難無く見つかった。
パンドラが書斎にしている部屋に入った時,
本棚があるが,一つだけ不自然な本棚がある。
慌てて本棚を本に戻した形跡があり,本がぐちゃぐちゃに入っている。
一輝はそのぐちゃぐちゃになった本棚の本を引き抜いた。
すると,壁に穴が開いており,中にカードを差し込むようになっている。
やっぱりビンゴだと一輝はカードを差し込んだ。
すると,部屋が振動して,本棚の隣にシャッターが現れ,一輝が前に立つとシャッターは開いた。
一輝は警戒しながらシャッターの先を抜けると,そこは広い格納庫になっていた。
目の前には一機の戦闘機がある。
細く流線形をしていて,作られて新しい。
どうやらハリアーと同じ形のようだ。
一輝はこれに乗ればエリシオンに行けるのだろうかと思った。
一輝は自動車の運転免許はあるが,戦闘機の操縦など知らない。
しかしエリシオンに向かうにはこれしか方法しかない。
コクピットを見れば分かるだろうと一輝は操縦席に入った。
すると,コクピットを見て一輝はびっくりした。
普通の自動車の運転席と全く同じだった。
普通のハンドルに普通のギア,足元にはブレーキとアクセルがある。
飛行機の免許などなくても女性のパンドラでも簡単に操作できるよう作られているらしい。
一輝はエンジンを回し,ギアをドライブに入れた。
戦闘機がうなり声を上げてガソリンを噴射した。
やはりオートマチックの自動車と同じ操作でいいらしい。
一輝はゆっくりとアクセルを踏んだ。
すると,戦闘機が垂直離陸で浮き上がった。
格納庫の天井が開いた。
空が見える。
戦闘機は冥界の空に浮上した。
「ようし,エリシオンはアケローン川を北上すればいいと言ってたな。待ってろよ!!」
一輝を乗せたハリアーは風を切って轟音と供に雲の中に消えた。
<完>
このまま一輝と一緒にハリアーに乗ってエリシオンへ行く
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