昔々,今から243年前。前の聖戦の時代,ある男女の聖闘士がいた。
女は男のことをとても好いていたし,男も女のことを憎からず思っていた。
しかし激しい聖戦が終わり,生き残ったのはその二人だけになってしまった。
その為,聖域を守るため,アテナを守るため,二人は離ればなれにならなければならなかった。次の聖戦に備え,新しい聖闘士達が育つまでー。





サガのクーデターから1年がたった。
アテナである沙織が聖域に凱旋し,1年の月日から聖域は少しずつ復興していった。
サガの乱の生存者の一人であるミロは,それからも聖域で同じ生存者の黄金聖闘士達とアテナの警備にあたっていた。

ミロの仕事はアイオリアと一緒に主にアテナの身辺警護である。
普段はアテナ神殿で警備をしていて,沙織が外出する時も二人でボディガードをするのだ。
アテナの教育や話し相手はシャカに任せているが,それでも一緒にいると沙織はミロに色んな事を質問する。
それがミロにも分かればいいのだが,最近は沙織も本やインターネットでいろんなことを知っていて,質問の内容すらミロにはさっぱり分からない事がある。
沙織はその特異な存在上,普通の学校に通う事が出来ない。
そこで通信制の高校で勉強することになったのだが,あるとき机の上の問題集を試しにミロが読んだところ,呪文のような数学の公式の羅列だったり,読めない漢字が並んでいて頭が痛くなった。
ミロはこんな時カミュがいてくれたらなぁ,と思う。カミュなら沙織からのどんな複雑な質問でもスラスラと答えるだろう。
カミュだけではない。
アフロディーテがいてくれたら自分たち男では気がつかない沙織の面倒も見てくれるだろう。
サガとその仕事を手伝っていたシュラとデスマスクがいないお陰で,ウナギ登りだった聖域の収入も今では嘘のようだ。
当然ボーナスも下がり,ミロ自身,アルファロメオの維持費が大変でヒイヒイ言っている。もちろん車は手放したくない。この際何かアルバイトでも始めようかと考えているところだ。
いっそあの世からみんなが帰って来て,カミュと昔のように遊んだり,サガが聖域の経営を立て直してくれないものかと考えていた。



牡羊座のムウと,牡牛座のアルデバランはいつものように白羊宮で夕食をとっていた。今日のおかずはアジフライだ。
いつもと違うのはそこに貴鬼がいないことだ。

実は,3カ月ほど前にアテナ命令があり,ハーデスの侵攻にそなえるために,黄金聖闘士以外の全ての聖闘士を聖域から撤退するようにとの通達があった。
そのときに聖域は危険になるから貴鬼も
魔鈴に預けているそうだ。
貴鬼には,聖域が改装工事をするので邪魔になるからしばらくそっちにいなさいと話してある。
貴鬼がいないアルデバランと二人だけの夕食。
ムウはアルデバランにたくさん話したいことがあったが,何から話していいか分からなかった。
今までこの3人は,貴鬼を中心につながっていた。そのパイプ役をつとめていた貴鬼がいなくなって,急に話のタイミングがかみ合わなくなった。
本当は,ムウにだって話したいことはたくさんあった。
だけどそのきっかけが分からなくなっていた。
すると,アルデバランが口を開いた。
「今日はさ,大変だったんだよ。昼食の時に出たみかんが相手の方が大きいってNさんがMさんになぐりかかっちゃってさ。止めるの大変だった」
「そうですか,フフフ」
アルデバランはあれからもずっと老人介護施設で働いている。
アテナの許可も得て,今はフルタイムの正社員になった。少し出世して夜勤も少なくなった。
今,ケアマネージャーの資格を取るために勉強もしていた。
「最近俺は思うんだよ。人間って年を取るとどんどん大人になっていって,また年を取ると今度はどんどん子供になって最後は,また赤ちゃんになるんだなぁ」
アルデバランはしみじみと言った。
「でもなぁ,みんな赤ちゃんみたいな人達だけど,みんな一生懸命働いてきた人達なんだ。赤ちゃんみたいだけど,赤ちゃん扱いせずに一人の人生の先輩として扱ってお世話してあげようと思うんだよ」
アルデバランは牡牛座の黄金聖闘士としての仕事と同じくらい,看護師の仕事を誇りに思っていることは誰もがよく知っていた。
食後,いつもならアルデバランは貴鬼を風呂に入れたり,一緒にテレビを見たり,貴鬼が寝るまで白羊宮にいるのだが,今日は勉強の続きがあると言って金牛宮に戻ってしまった。
1人になったムウは後片付けをしてから一人で座っていた。

ムウはカミュが生前,弟子を手放してからの巣症候群になっていたことを思い出した。
氷河がいなくなって一人になったので,手持ちぶさたで困っていた様子だった。だからこそ,ムウが貴鬼の家庭教師を頼むと困惑はしたものの,かなり力を入れてやってくれた。
カミュは表では何も言わなくても心の中では氷河と離れてさびしかったかもしれない。
だからカミュはアフロディーテと恋をして,それが破滅的な方向へ向かってしまった。カミュのそばに氷河がいれば,そのような方向に向かわなかったのではないかとムウは考えている。
とはいえ,庇護する家族がいなくなるというのは本当にさびしい状況だとムウは肌身にしみた。

そのとき,不安定だが,大きな小宇宙が近づいてくる。
ここに向かっているのだろうか。
ムウは嫌な予感がして聖衣をまとって外に出た。
辺りは真っ暗で,わずかな電灯が石段を照らしていた。
だが,足音がはっきりと聞こえる。
それは堅い足音だ。
まるで聖衣をまとっているような音がする。
やがて電灯に照らされるようにして,フード付き黒いコートをまとった人影がムウの方に向かって歩いて来た。
階段に写るその影がとても増幅され,その闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「どなたですか」
ムウはコートに向かって叫んだ。
気にせず,ずいずいと前に進み出たコートはムウよりも少し背が高かったが,どうやら女性のようだ。
すらりとしていたが,胸や腰の形が明らかに女性の体だと分かる。
そうなるとまさに都合が悪い。下手に女性だと攻撃も出来ない。
「申し訳ありませんが,ここから先は部外者の方は入れませんよ」
ムウはもう一度声を掛けた。
すると,コートからとても意外な答えが返って来た。
「あら。私は部外者ではなくってよ。もとはと言えばあなたの家だってそこは私のものだったのですからね」
若く張りのある声だが,とても侵入者とは思えない堂々とした口ぶりだった。
その声にムウははっとして,コートの顔を見た。
どうやら心当たりがあるらしい。
「まさか…あなたは」
ムウは驚きのあまり,後ずさった。
「…シオン」
ムウがその名前を口にすると,コートの奥のピンク色の瞳が怪しく光った。
「おひさしぶりネ。私がここから姿を消してから大分経つものネ。今日は貴方に命令を持ってきたのよ」
シオンはつかつかとムウの前に立った。
彼女はムウの師,シオン。とうの昔に亡くなっていた。その彼女がここにいる。
幽霊ではない。はっきりと生きた人間のようにそこに立っている。
それだけでもとんでもないことなのに,さらにシオンはとんでもないことを言った。
ムウに命令があるという。
「命令とはなんですか」
「…アテナを殺しなさい。殺してその首を私の所に持って来なさい」
ムウは驚いてもう一度シオンの目を見た。
アテナを守る聖闘士たるものがその主であるアテナを暗殺せよとはどういう事だ。
「それはどういうことですか」
「どうもこうもないわ。アテナに生きていってもらっては困るのよ」
「嘘でしょう。アテナの聖闘士だったあなたがアテナを裏切ることなど天地がひっくりかえってもあるはずがないです」
「それは生前の話。今は違います。今の私の主はアテナではなく冥界の王,ハーデス様だから」
その名を聞いて全身に寒気が走った。
大地を守るアテナと冥界を守るハーデスは神話の時代より幾度となく聖戦を繰り返してきた。そもそも聖闘士と言う者はその聖戦の為に結集されたものである。その聖闘士のかつてはムウの師匠でもあった,シオンがハーデスに忠誠を立てているという。
「なぜあなたが」
「詳しい話は聞かないでネ。大人の事情です。理由?…そうね,しわしわのおばあちゃんの死体だった私を若返らせてくれて生き返らせてくれたのよ。これってすごいと思わない?だったら何でも言うことを聞いてあげたくなるってもんでしょう。その人がアテナの暗殺を望んでいるのなら仕方ないわね。でも私は余計な体力を使うのは嫌いだからあなたが行って来てちょうだい。私ここで待ってるから」
「…恐れ入りますが,それはできません。私はアテナの聖闘士です。そのアテナに刃を向けることなどできません」
ムウは頭を下げて言った。しかし本当は声が震えていた。
シオンがよみがえったから恐ろしいのではない,自分が命と若さを手に入れる為にはとアテナを裏切っていることが恐ろしいのだ。
ムウは目の前にいる女性が本当に自分の師のシオンなのかどうか疑いたくなった。
しかし顔立ちや体型はもちろん,表情や声はすべてシオンのその人だ。
「いいの。私の命令に逆らってただでいられるの」
初めてシオンがムウに対して不快感を見せた。
「…命の保証はないわよ」
「それもできません。私は死ぬわけにもいきませんから」
「強情さは相変わらずのようだけど」
「あなたに似たんでしょう」
ムウは涼しい顔でシオンと対話しているが,内心はとても恐れている。
シオンの小宇宙の強大さが今まさに肌に感じられるくらい増幅しているからである。
「いいわ。頑固者のあなたと押し問答していてもどうしようもありません。そうでしょう?」
シオンは見返った。
「この通り私は動けません。この頑固者も私の為に動いてくれることはなさそうです。代わりに貴方達,行って来て」
するといつの間にかシオンのようにコートを着た二人組が立っていた。
二人組はよろよろとこちらに近づいて来た。
手前にいた方がコートを脱いだ。
ムウはまたびっくりさせられた。
「デスマスク!?」
死んだはずデスマスクが立っていた。だが,その聖衣はかつてのように金色ではなく,まがまがしい限りなく漆黒に暗い紫色だった。
「死んだはずではなかったのですか。それにその聖衣は」
「…これは冥衣。冥王ハーデス様に忠誠を誓った者だけがまとうことを許されるのだ」
デスマスクはにやにやして言った。
するともう一人もコートを脱いでみせた。
それは同じく冥衣をまとうアフロディーテだった。
「二人とも,これはどういうつもりですか」
「決まってるだろ。この方のおっしゃる通りだ。アテナを殺して首を届けなきゃいけねぇんだ。通してくれるならどいてろ。さもなきゃたとえあんたでも容赦はねぇよな」
デスマスクが睨みをきかせた。
ムウはアフロディーテの方を見た。
「あなた,こんなバカなことしていいんですか。カミュが知ったら傷つきますよ」
すると,
「彼のことは言わないで!!関係ないわ!!それに一度くらいあなたのことふるぼっこにしないと私の気が収まらないの!!」
生前からムウとアフロディーテはあまり仲が良くなかった。
といっても表だって喧嘩をするというわけでもなく,ムウはもともと自分の師匠のこともあるので女聖闘士が苦手で,アフロディーテはムウの優等生ぶりが鼻に着く,といったそりの合わなさが原因で,お互いなるべく近寄らないようにしている程度のものだった。
それでもアフロディーテから考えるとムウにはぜひともお礼参りをしなければいけない理由があった。
そもそもムウが青銅聖闘士達に加勢したから自分たちの穏やかな日々が破綻をきたしたのだし,それさえなければ自分も恋人のカミュも兄代わりだったデスマスクやシュラも死なずに済んだし,サガだって手術を受けられたはずだった。
何度も言うがアフロディーテはアテナよりも自分と自分の恋人や友達の方がずっと大切だったから。
そんなアフロディーテにとってムウは間違いなく自分の生活を壊してくれた憎たらしい犯人の一人だったのだ。
ムウはと言うと,アフロディーテは最後までアテナに忠誠を使わず,あまつさえ聖域の大切なブレインであったカミュを道連れにした毒婦位に思っていた。
二人は互いににらみ合った。
黄金聖衣をまとったムウと冥衣をまとったアフロディーテは火花が散らんばかりににらみ合った。
「どいてろ,アフロディーテ。とどめはお前が差せばいいから」
デスマスクがさらに一歩前に出た。
「行くぜ!!積尸気冥界波!!」
デスマスクの右手の人差し指から鋭い光が伸びる。
「…くっ」
とっさにムウは目の前にクリスタルウォールを張った。
デスマスクの攻撃はバリアーによって弾き返され,デスマスクも吹き飛ばされた。
「きゃあ,デスマスク,しっかりしてよ」
アフロディーテは倒れるデスマスクを助け起こそうとする。
「…イテテ,俺は大丈夫だ」
アフロディーテは頬をぷーっと膨らませずんずんムウの前まで歩いて来た。
「いい加減にしなさいよね!!」
アフロディーテは右手を突き出した。
「ピラニアンローズ!!」
無数の黒薔薇がムウに向かって飛んで来た。しかしまたしてもムウのクリスタルウォールが黒薔薇を弾く。
その様子をシオンがため息をついて眺めていた。
「ムウ,いい加減にしなさい。そのバリアーを解いて今すぐ二人を通して」
シオンの目は鋭かった。
シオンが何度か眼を瞬きさせると,いきなりムウのクリスタルウォールがガラスのようにひびが入って崩れてしまった。
それを合図にデスマスクとアフロディーテがムウのわきをすり抜けようとした。
そのとき,デスマスクは何者かに殴られ,すっ転んだ。
「ムウ!!助けに来たぜ!!」
そこには星矢が立っていた。
「大丈夫か,俺も手伝う」
「なぜ戻ってきましたか」
「え」
歓迎されるとでも思っていた星矢は驚いた。
「貴方はアテナ命令を無視するのですか。あなたたちを聖域から撤退させたのはアテナの命令なのです。二度とここにきてはいけないとあれほど言ったでしょう。今すぐ東京へ帰りなさい」
「何言ってるんだよ,あんたらだけで大変な目に遭わすわけにはいかないじゃないか」
「いいえ。むしろあなたがいると邪魔だと言っているんですよ」
「ハァ?俺が邪魔?沙織さんがそんなひどいこと言うわけないだろ!」
「ひどいことでもなんでもありませんよ。あなた死にたいのですか?命が惜しければ帰りなさい。そしてもうここに来てはいけません」
「そら見ろ,お前は邪魔だってことだ」
柱に寄りかかってデスマスクが起き上がると煙草に火を付けた。
「これから起こる戦争はお前らの想像をはるかに超えるもんだ。お前ら小僧が出張ったところでどうにもならねぇ」
星矢は振り返って首をかしげた。
何だ,このデスマスクの余裕は。
本来ならばすぐに星矢に反撃してくるはずだ。
星矢は混乱してしまった。
そうこうしている間に再び向かい合ったムウとアフロディーテの空気が険悪になった。
アフロディーテはムウの傍まで歩いて来て相手の体を眺めた。
「貴方最近すこし太ってきてない?聖衣がキツそうよ」
「なっ」
ムウの常に冷静な顔に明らかに動揺が走った。確かに最近3kg太った。貴鬼がいなくなって料理の配分を間違え,作りすぎるようになり,余った分をたべたりしているうちに少し体重が増加しているのだ。家事も少なくなり子育ての機会がなくなったので,運動も不足だ。誰にも言われなかったから自分でもあまり気にしていないはずだったが,現実に面と向かってアフロディーテに言われて怒りが込み上げてきた。
「あなたのような痩せぎす女よりマシですよ」
「言ったわねー!!気にしてるのにー!!」
アフロディーテがムウにつかみかかった。
2人のとてもとても見苦しい取っ組み合いが始まった。
「ムチムチムウ!!」
「骨女!!」
相手の長い髪の毛を引っ張ったり,顔を押さえつけたり,足を引っ掛けようとしたり,ひざ蹴りをしたり,とても黄金聖闘士同士の争いには見えない。
これがいわゆる千日戦争か。
星矢はおろおろした。
デスマスクは壁に寄りかかって一服しているし,コートを着たシオンは無言で事の成り行きを見ている。
誰もこの低レベルのけんかを止める様子はない。
「…困ったな。ふ,二人とも,詰まらないケンカはやめろ。ほら」
星矢が及び腰で二人の間に止めに入った。
「何よ!!」
「何ですか!!」
2人の剣幕に押されて星矢はぎょっとした。
「その…だからそんなくだらないケンカはやめて…」
「くだらなくないわよ!!」
「子供が口出ししないでください!!」
同時に2人が鬼の形相で睨みつけてきた。
しかしここで星矢は引き下がらない。
「落ち着いて,二人とも,ほら!!」
星矢はとりあえず体重の軽いほうのアフロディーテを後ろから抱えて引き離そうとした。
そのとき。
「ピラニアンローズ!!」
「スターライトエクスティンクション!!」
黄金聖闘士2人分の技を受けて星矢は吹っ飛んで行った。
星矢が飛ばされた後も二人はなおももみ合っていた。
最後にムチムチムウが骨女に体当たりをかまして,ケンカは強制終了した。
「おいおい,しっかりしろ」
デスマスクがアフロディーテを助け起こした。
「痛いわ,痛いわ」
アフロディーテが頭を押さえてべそをかいた。
その泣き顔が小さい頃のアフロディーテと重なってデスマスクは胸が痛くなった。
デスマスクとアフロディーテとシュラは小さい頃から仲が良かった。
デスマスクとシュラは同い年なのにアフロディーテのことを本当の妹のように可愛がり,アフロディーテもデスマスクとシュラをとても頼りにしていた。
カミュという立派な青年と付き合い出してからは少しは距離を置いていたものの,やはりアフロディーテはデスマスクの大切な妹なのだ。
その妹がけんかに負けて泣いている。兄としてこれは黙ってはおれない。
「おい!!」
デスマスクは指をぽきぽき鳴らしながらムウの傍まで寄って来た。
「ちんちくりんはあっちに行って下さい!!」
女性のアフロディーテですら183cmの黄金聖闘士の中で,168cmのデスマスクはいささか小柄に見える。しかしちんちくりんと言うのはあんまりだ。
「なにをー!!気にしてるんだぞ!!」
デスマスクは憤慨した。
「積尸気冥界波ー!!」
「スターライトエクスティンクション!!」
ドゴォォォォォン!!
二つの技が爆発し合い,辺りに閃光が走った。
その場に残ったのはムウだった。
「ふうふう」
ムウは肩で息をしていた。もう体力の限界だった。
全ての敵をなぎ払ったと思っていたが,シオンはまだそこに立っていた。
「さすがね」
余裕のある笑みを向けた。
「でも体は辛そうね」
ムウはもともと黄金聖闘士でありながら争いは好まず,戦うこともほとんどなかった。
つまり戦いなれていないこともあり,一度に技を使うと本当に体力を消耗してしまった。
それをシオンに見抜かれてしまったのである。
「しょうがないわね。その体じゃとても役に立たないでしょう。分かりました。あなたはここにいなさい。その代り他の者に行かせます」
シオンの後ろにもう3人,コートを着た男がいた。
ムウは嫌な予感がした。
17年前に亡くなったはずのわが師シオン,デスマスク,アフロディーテ。皆冥界から蘇って来た。するとこの3人もまたそういった存在ということになる。
一人が前に出てきて片手を振り上げた瞬間,宮の床に亀裂が走る。
そしてそこに立っていたのは冥衣をまとったシュラだった。
そしてその隣にいた二人はカミュとサガだった。
3人とも冥衣をまとい,変わらぬ強い小宇宙を漂わせている。
サガに至っては心臓病に悩むこともなくなり,双子座の冥衣をまとって堂々と立っている。生前は病気のせいでまともに聖衣をまとうことすらできなかった。
カミュは生前同様端正な顔立ちだったが,以前と違うのは,ムウに対してまがまがしい負の感情を向けていることだ。
生前のカミュはいつも穏やかで明らかに人に敵意を向けることはなかった。
しかし今目の前にいるカミュの青い瞳は鋭利な氷柱の様にムウの目に突き刺さってきた。
恐ろしい目だった。
多分カミュはその理由を口には出してくれないだろう。しかしその瞳と唇は明らかに怒りをたたえ,また悲しみにもくれていた。
「なぜあなた方まで」
ムウがカミュから目をそらして聞いた。
とりあえず今は時間稼ぎをしなければと。
「私が相談したら親切にこの3人は協力してくれたわ。当然よね」
シオンが代わりに答えた。
ムウはついさっき冷静さを失ってデスマスクとアフロディーテを吹っ飛ばしてしまったことを後悔した。それとなしに話を聞き出せばよかった。
大体死人があの世から蘇ってくるのもおかしいし,まだチンピラのようなデスマスクや精神年齢が小娘のアフロディーテならともかく,気まじめだったシュラや人格者のカミュやサガ,そして何よりもじぶんが信頼していた嘗ての師,シオンまでもがアテナを裏切り冥王ハーデスにつくという。
そこに至るまでにどんなやりとりがあったのだろう。
ムウの心の声を聞いたのかサガが代表して前に出た。
「ムウ君,君はもっと合理的に生きなければなりませんよ。わざわざ負け戦に手を貸して何になるというのです。私は二度も犬死したくはありません。戦いもお金儲けも同じです。目の前の浅はかな正義よりも先を見越しての行動が大切なのです」
「分かったらそこを通したまえ。私達は急いでいる」
カミュは付け加えた。
ムウは質問した。
「もしそれでも私が通さないと言ったらどうしますか?」
「実力行使に出るということだ」
シュラがそう言って両手を差し出した。
「っ」
ムウは真空刃から避けるため,とっさにジャンプした。
「ダイヤモンドダストー!!」
しかしその大きな隙に付け込むようにカミュがダイヤモンドダストを放った。
ムウの足元が凍りつき,地面に落っこちた。
倒れたムウの上からシュラがマウントポジションをとり,技が出せないように指をきめた。
手慣れた連携技だった。
「もう一度言う。すぐにでもここを通してくれ」
カミュの冷たいバリトンが響いた。
「そうです。ムウ君,もう意地を張るのはやめませんか」
サガのテノールも薄情だった。
しかしムウはその冷たいバリトンの中に氷水の様な清しさと,薄情なテノールの中にガラスのようなはかないせつなさのような小宇宙を感じ取った。
ムウは今一度3人の顔をじっと見た。
シュラの目もサガの目もカミュの目も非情さのオブラートの中になにがしかのペーソスのようなものが見えた。
そしてそのペーソスは悲哀の小宇宙だった。
まるで彼らが泣いているかのようだ。
―これは一体…。
ムウの表情が変わったので,シュラは手を離した。
「行きましょう」
サガが遠く高くそびえるアテナ像を見て告げた。
カミュとシュラはうなずいて,3人はムウのそばを通り過ぎた。
ムウは動けなかった。3人の視線で金縛りにあってしまった。
―…一体あの3人は何をしようとしているのだろう。
ムウは動けないまま,へたりこんでしまっていた。
「ムウ,しっかりせんかいな」
聞き覚えのあるしわがれ声がして,その声を合図にムウの金縛りが解けた気がした。
「五老峰の老師…」
そこには天秤座の黄金聖闘士でありながら年老いて杖を付き,エビのように腰の曲がった五老峰の老師,童虎が歩いて来るのが見えた。
「老師,まさかお一人でここまで来られたのですか」
「そや。なんとか最終の飛行機に間におうたんや。待たせたな。…シオン」
そう言ってシオンを振り返った。
「先代の牡羊座の黄金聖闘士にして,ムウの師であり,サガに殺された女教皇,シオン。そしてこいつはわしの同級生や」
シオンはフードの奥で笑っていた。
「そうよ。私は殺された。でも戻って来たのよ」
シオンはコートを脱いだ。
黄緑色の長いくせっ毛が魅力的な色白で長いまつげの美女が立っていた。
身長も男性のムウより少し高いだけあって手足が長く,スレンダーながら女性らしい豊かな谷間と丸みのある臀部を持っている。
そしてその魅力的な体をまがまがしい牡羊座の冥衣が覆っていた。
とても童虎と同い年には見えない。
しかしその足は冥衣のフットパーツの上からでも羊の蹄のような纏足であることがはっきり分かることから,シオンの生まれた時代の古さがよく分かる。
「そうか,ハーデスに生き返らされただけと違て若返らせてもらったんやな。女のお前の考えそうなこっちゃな」
「何とでも言いなさい。あなたこそ何なのよ。よぼよぼのおじいちゃんじゃないの」
「お前もなんぼ若返ってみたところで中身は二百ウン十歳のオバアやろうが。見た目の若さとかそんなもんはいっしゅんのもんやでぇ」
童虎はにやにやして言った。
気に触ったらしく,シオンは目を見開いて童虎をにらみつけた。
「おお,こわ。お前は昔から怖い女やったなぁ」
と童虎はわざと肩をすくめてふざけた。
「ムウ」
「はい」
「お前は今すぐサガらを追うんや。この女はわしが始末付けるから」
「えっ」
ムウは驚いた。
「ワシのことはええ。はよう行け。任せとけ」
ムウを見た童虎の目は鋭く光っていた。
ムウは逆らえなかった。
「分かりました」
ムウはどうにか立ちあがって白羊宮を出た。
アルデバランが心配だった。
老師のことも気になるが,アルデバランのことも気になる。
アルデバランとサガ達が対峙しているのではなかろうか,だとしたらなんとか自分が間に入って加勢しなければと思った。

その頃,ここは敵の陣地,ハーデス城。
ハーデスの神官であるパンドラは,執務室に座り,書類とにらめっこをしている。
黒髪に黒衣の美人だが,どことなく陰気そうな顔つきだ。眉間にしわを寄せて口は固く結んでいるのは,決して不機嫌なのではなく,もともとそういう顔立ちの女だった。
「パンドラ様,失礼します」
そこへ漆黒の翼を背負った冥衣をまとった青年が現れた。
金髪の癖っ毛で,鋭い眼光に長い手足の彼は,
天猛星ワイバーンのラダマンティスという。
冥界を統べる冥王ハーデスを守る108人の冥闘士の中で最も実力を持つ3人の一人であり,このハーデス城を警備する切り込み隊長である。
「ラダマンティス,何用ですか」
パンドラが睨み上げるようにラダマンティスを見た。
「はい。アテナの黄金聖闘士だった者共を聖域へ向かわせたそうですね。彼らのみに任せても大丈夫なのでしょうか。裏切ったりはしませんか」
「お前はいつも用心深いですね」
「仕事ですので」
「そんなに気にもまずともよろしい。もし何かあってもお前ほどの実力ならば,アテナの聖闘士などたやすくつぶせるはずです」
「それでは俺の出撃命令は出して頂けないのですね」
「そうです。まずは彼らに任せておきなさい。お前はまだ動いてはなりません。分かりましたね」
「はい」
パンドラに強く言われてラダマンティスは最敬礼をした。
切り込み隊長のラダマンティスはハーデス城の中に自分の部屋をあてがってもらっている。
パンドラの命令がなければ彼はこの城に詰めていなければならなかった。
…退屈だった。
それにラダマンティスはパンドラの命令には絶対服従するが馬鹿ではなかったから,自分たちの代わりにアテナの首をとりにいったサガ達そのものを信用しているわけではなかった。
裏切られるんじゃないかと思っていた。
ラダマンティスはハーデス城近くのコンビニで缶チューハイやおつまみの菓子を買って戻って来た。
玄関先で小柄な冥闘士と会った。
卑屈な笑みを浮かべてラダマンティスの顔を見る小男は地奇星フログのゼーロス。
「おやおや,ラダマンティス様,勤務時間中にお酒ですか」
ラダマンティスの持っている袋の中を覗き込んでゼーロスがいやらしい口調で言った。
「お前には関係ない。今は非番だ」
ラダマンティスはゼーロスとの会話を切り上げたくて無視して通り過ぎようとした。
「あれあれあれ?パンドラ様は確かにラダマンティス様のことを非番にしましたが,本当は納得してないんじゃありませんか?」
「俺の意見はどうでもいい。パンドラ様のご命令なら従わねばなるまい」
「らしくないですねぇ。納得いかないのに見すごすなんてラダマンティス様らしくありませんな」
「うるさい」
ラダマンティスはむっとして早足で廊下を通り過ぎて行った。


「アルデバラン,大丈夫ですか?私です」
ムウが金牛宮に入った時には人の気配はなかった。
しかし電気は付いているので,広間の様子はよく見える。
広間の奥にアルデバランが立っていてこっちを見ている。
「無事でしたか。よかった」
ムウは慌ててアルデバランのそばに駆け寄った。
しかしアルデバランは返事がない。
まるでろう人形みたいに立っているだけだ。
「アルデバラン,どうしたんですか」
ムウはアルデバランの体から2メートルくらい手前まで来て立ち止った。
「起きて下さい」
ムウはアルデバランの体に触れた。
体温がない。
温かくも冷たくもなく,まるで物質の様に常温なのだ。
「…まさか」
アルデバランは両手を前に突き出したままのポーズで体も硬くなっている。
脈を調べる以前に死後硬直が始まっている。
「…どうして」
ムウは頭の中が真っ白になった。
「どうして私を置いて行ったりしたんです!!私まだあなたに話していないこと色々あったのに…こんな所であなたがいなくなってしまうなんて。私はどうすればいいんですか?」
ムウは尻もちをついてさめざめと泣き始めた。
「…別れの挨拶は済んだかい」
ムウの背後で声がした。
「だ,誰ですか」
ムウは辺りを見回した。
物陰から小柄な痩せた男が出てきた。
見たこともない聖衣のようなものを着ており,
眼光と歯が鋭く,皮膚も浅黒くてまるでワニのようだ。
「俺は地暗星ディープのニオベだ。よろしくな,アリエスの黄金聖闘士さんよ」
―地暗星?ハーデスを守護する108の星の一つじゃないか。するとこの男が冥闘士?
ムウは深呼吸をしてしゃべりだした。
「そうですか。ではあなたが冥闘士なのですね。ちょうど良かったです。教えてほしい事があります。アルデバランを殺したのはサガ達ですか」
「いいや。あいつらはここを通り抜けただけだ。この牛を殺したのはこの俺よ」
―やはりそうだったか。
ムウは作戦を決めた。
「しかしあなたも間抜けな人ですね。自分から罪の告白をするなんて変わっています。逃げればよかったのにここでじぃーっとしてるなんてわざわざ捕まりに待ってるようなものですよ。こんなことしてタダで済むはずがないでしょう」
ムウはなぜか時間稼ぎをしているようだ。後ろ手にまわした手に何かを持っているようだ。
「俺様が間抜けだと?間抜けはあんただろ。ここで俺の自白を聞いたってあんたはすぐに死ぬんだから意味はねぇよ」
「さあそれはどうですかね。私を殺しても貴方のやったことは世間様に全部丸っとさっぱりお見通しです!!」
ムウがニオベの背後を指さして叫んだ。
びっくりしたニオベが後ろを見た。
「…だ,誰もいないじゃないか。お前,だましたな!!ディープフレグランス!!」
ニオベが紫色の香気を放った。
「ふっふっふー,ディープフレグランスのにおいを吸い込むとどんな奴でも意識が混濁して死ぬるのだ」
強烈な香気が辺りを覆った。
ムウの声も足音もしない。
「眠るように死んだか」
煙が消えてニオベが見ようとした時,目の前にムウが立っていた。ただし防毒マスクを付けて。
「なにィ」
「私がこの宮に来た時から変な香水のにおいがしたんですよ。アルデバランは医療関係者ですから,香水なんて付けません。これは何かあるなと思って,アルデバランが仕事で使っていた防毒マスクを付けたんです。さすがプロ仕様ですね」
「クソッ,俺をコケにしやがって」
ニオベがかっとなってムウに飛びかかった。
しかしムウが指先をニオベに向けた。
「貴方,そんな体でまともに動けると思ってるんですか。アルデバランが一体何発貴方にグレート・ホーンを撃ち込んだか分かりますか」
ムウの言葉がまるで合図のようにニオベの手足の関節が反対に曲がった。
「うげっ!!」
ボン!!
「ひでぶ!!」
風船のようにニオベの体が破裂した。
マスクを外してムウはアルデバランの方に戻って来た。
「アルデバラン,もう少し私が早くここに着いていればあなたを救えたのでしょうか。ごめんなさい…ごめんなさい」
ムウはアルデバランの立ち往生した亡骸にすがって再び泣いた。


その頃,サガ達慟哭の3人はサガのかつての住居である双児宮にやって来た。
「ここは私のかつての家ですが,入院しておりましたので,ほとんど放ったらかしなんですよ。お恥ずかしいです」
とサガ。
「どうせ無人ですから先を急ぎましょう」
サガがまず中を通り過ぎようとした。
すると,広間の真ん中に双子座の黄金聖衣をまとった何者かが立っていた。
「どなたですか」
サガはぎょっとして尋ねた。
返事がない。
しかし屍ではない。なぜならその体からは微弱だが強大な小宇宙を発している。
サガは何かに気づいた。
「カミュ君,シュラ君。君達は先に行ってて下さい。私はこの人と話があります」
「けど,大丈夫か」
シュラが心配そうだ。
「…行こう。シュラ」
カミュがシュラのひょろりとした体を引っ張った。
1人になったサガはかつての自分の聖衣を着込んだ何者かに声を掛けた。
「貴方は一体」
サガが相手の肩を触ろうとした時,パンパンパン!!と銃声のような音がして火花が飛び散り硝煙が巻き起こった。
そして音楽が鳴り,石川さゆりの天城越えのサビの部分が鳴った。
「ひっ」
サガは思わず身構えたが,生前のサガなら発作を起こして倒れていたかもしれないが,今は違う。
サガが落ち着いてみてみると,サガの周りをロケット花火が飛びまわっている。
もちろんこの黄金聖衣もメッキ製だ。
そしてにせものの黄金聖衣を着ているのはビニールの人形だ。
ギミックはこうだった。
ビニール人形の上に導火線でつないだロケット花火をぐるぐる巻きつけ,上からメッキの黄金聖衣をかぶせる。
長く伸びた導火線は,人形の首から天井に伝わり,天井にぶら下がったチャッカマンにつながっている。となりにはラジカセだ。
しかしこれだけでは花火は点火しない。
サガが目をよく凝らして天井を見ると,赤外線センサーが付いている。
自動ドアに使われているものだ。
人間が人形の近くに立つと赤外線センサーが感知して,電気抵抗が発生してセンサーの横の制御装置に伝わるようになっている。
試しにサガがもう一度ビニール人形の前に立つと制御装置から金属製の棒が出てきてチャッカマンのボタンとラジカセのスイッチを押した。

こんな手の込んだしかしふざけたことをするのはサガの知っている人物では一人しかいない。
彼はいつもそんなことばかりしていた。
素行が悪く,勉強も全くしなかったが,夏休みの図工の宿題で賞を何度もとったことがあるし,技術の授業だけはまじめに聞いていたそうだ。
「そうですか…戻って来てくれたのですね」
サガは人形の前に跪いた。
「私も…私も頑張ります。貴方に負けないように頑張ります」
サガはよろよろと立つと,双児宮を抜け出した。
外ではカミュとシュラが待っている。
2人はサガの顔を見て心配そうに寄って来た。
サガが涙を流していたからだ。
「サガ,どうした」
カミュが声を掛けると,サガは,
「私の夢が…また一つ叶いました」
とだけ伝えた。

その頃,アテナ神殿では,沙織の所にミロがやって来た。
「アテナ,ご無事ですか」
「ええ,何も変わりありませんよ」
アテナはおよそ年相応に似つかわしくない気品のある落ち着いたアルトで答えた。
ミロが沙織の部屋を出ると,大広間で海龍の刺繍の入ったスカジャンと脛のやぶけたデザインのジーンズ姿の男が疲れて転寝をしていた。
男の顔と髪型はサガそっくりだったが,唯一髪の色がサガよりも明るい青であることと,左耳にニッケルの輪っかになったピアスを付けていることが違った。
「カノン!!」
ミロは男の名前を呼ぶと襟首をつかんだ。
「お前,どの面下げて帰って来た」
ミロが騒ぎ出したので声を聞いて沙織が飛んで来た。
「どうしたのです」
「アテナ,いつの間にかこの男が」
ミロが駄々っ子のように騒ぎだした。
「カノンですね。知っています。彼は私の所へ助けに来てくれたのです」
アテナがカノンがここにいることを知っているのにミロは驚いたがあわてて首を振った。
「いいえ,アテナ。信用してはダメです。こいつはまた悪さをします」
ミロは無理もないがカノンを絶対に信用していない。
「俺はもう昔の俺じゃねぇ。違う」
カノンは苦しそうに声を出した。
言葉遣いはサガと違って粗削りだが,声はサガと同じあのよく通る品のあるテノールだった。
「アテナに救われ,俺はもう生まれ変わったんだ」
「嘘付け。人間の性格なんてそうそう簡単に変わるわけねぇよ。お前なんか叩き出してやるぜ」
ミロが右手の指を突き出した。
「この俺のスカーレットニードルを食らいたくなければここから出て行け」
「何をされても俺はここから出ていくつもりはないぜ。俺にはやらなきゃならないことがあるんだ」
「そりゃいい度胸だな!!スカーレットニードル!!」
ミロはカノンの体にスカーレットニードルを数発撃ち込んだ。
カノンはそれを避けることもせず,そのまま吹っ飛んだ。
―なんだこいつ,なんでよけねぇ?
カノンは立ち上がると,再びミロの前に立ちはだかった。
「…これくらいの痛み,今の俺には蚊に刺されたようなものさ。さぁ,来いよ」
「あー,ムカつくなお前!!」
ミロは何となくイライラした。
そういえば以前,氷河と対峙した時もミロは似たようなイラつきを感じていた。
自分が何度も攻撃するのに相手は傷つきながらも何度も何度も起き上がる。
まるで自分がこけにされているようだ。
「ミロもやめなさい。カノンを許してあげなさい」
アテナの声もミロには聞こえなかった。
「しょうがねぇ,最後のアンタレスを打ち込んでやる。覚悟しろ!!」
ミロの指がカノンを貫いた。
「ぐはっ」
カノンは派手に飛び,倒れたが,まだ震えながらも動いていた。
「…ミロ」
カノンが呼びかけた。
ミロはカノンに向かって何かのカギを放ってよこした。
カギのプレートにはJEMINIと掘られ,双子座を表すマークが付いている。
これは双児宮の住居部分のカギだ。
「分かったらさっさと中に入って体をふきな。血だらけでアテナを警備するつもりか?」
ミロは言い捨てて教皇の間を出て行った。
カノンは鍵を握り締めて起きた。
「ミロは…もしかしてアンタレスを打つふりをして俺の命を助ける真央点を…」


その頃,白羊宮では,シオンと童虎が向かい合ったまま,じりじり動きもしなかった。
「今の貴方に私が止められるとでもいうの?」
シオンは自信たっぷりに童虎を見た。
「そら知らんけどお前を止めるためやったらどんな手でも使うでぇ」
童虎はなぜか今日は声が普段より若々しい。
「そう,それじゃあ試してあげる」
シオンが童虎に紫色の闇の様な光弾を飛ばした。
「ふんっ」
童虎も負けずに金色に輝く光で受け止める。
2人の激しい力は拮抗し,ちょうど中間地点で止まった。
「ぐおっ」
しかし年齢的な衰えは否めず,老師は吹き飛んだ。
そのとき,童虎の後ろから一人の少年が走って来た。
紫龍だった。
「老師!!遅くなってすみません。一体どうしたというんです。急に書置きなんか残して。それにそっちの方はどなたですか」
「下がれ!!」
童虎は起き上がると振り返らずに怒鳴った。
「お前はこのまま何も見いひんかった知らんかったことにして帰るんや」
「そんなことできません。老師を放っておくことなどできませんよ」
「あほか!!」
老師が初めて紫龍を怒鳴った。
「お前わしの言う事がきけへんのか!!この女はお前の手に負えるヤツとちゃう。ワシと同じ最後の聖戦を生き残った牡羊座の黄金聖闘士で,教皇やったやつなんや!!普通の黄金聖闘士とちゃうんや!!」
老師はもう一度フォームを取った。
「蘆山百龍波―!!!!!」
童虎の両手から無数の龍がシオンに向かって飛んで行った。
「フンっクリスタルウォール!!」
シオンがムウと同じクリスタルウォールを張った。
龍がシオンのクリスタルウォールを覆って行く。
すると,クリスタルウォールが少しずつひび割れ始めた。
パリン。
ガラスが割れるようにシオンのクリスタルウォールが壊れた。
「ふ,やるわね。ならこれはどうかしら。スターライトレボリューション!!」
シオンの右手から針のような光が飛んで行った。
光が童虎に向かって真っすぐ飛んだ。
光は童虎に命中して爆発した。
「あっ,老師!!」
紫龍は爆風の起きた地点まで駆け寄った。
「ふふふ,はっはっは」
煙の中から童虎の笑い声が聞こえる。
「老師?」
崩れたがれきの中から童虎が立った。
「お前の意地っ張りなところはほんまに変わらへんのぅ。まあそういうところも可愛かったでぇ。けどここまでコケにされたらワシも本気出さな悪いかなぁ」
へらへらと笑う童虎をただ紫龍もシオンもわけが分からず見ていた。
「まぁ,見よれや」
童虎は呼吸を整えた。
すると,童虎の頭上に光り輝く天秤座の黄金聖衣が現れた。
しかしすでに年をとり,体も縮こまり腰も曲がったこの老人に聖衣を着ることなどできるのだろうか。
「ハァァァーッ」
童虎が精神を集中させると,その体が光を放った。
辺りに暗雲が立ち込めた。
なんと奇怪なことか,童虎の身長が少しずつ伸び,紫龍よりも高くなった。
バリバリバリバリ!!
空から雷が落ちてきて童虎の体を直撃した。
思わず紫龍は顔をのけぞらせた。
そのとき,目の前に童虎の姿はもうなかった。
そこにいたのは,栗色の髪の,きりりとした
表情の好青年だった。
「ろ,老師が若返った!?」
紫龍の声が裏返った。
「どや。紫龍,ワシもなかなかのイケメンやろ?へっ」
童虎が得意げに笑った。
「どういうことなの,それ」
シオンが不審そうな眼で童虎を見た。
「私にもさっぱり意味が分かりませんが。どうして若返ったのですか」
紫龍が尋ねた。
「しゃあないのう。説明したるわ。前の聖戦の時最後に生き残ったんがわしとこのシオンだけやった。それでどっちかが教皇をやってどっちかが封印したハーデスの108星を見守り続けることになった。ほんでシオンが教皇になって,わしが星を監視する役になった。それからずーっと234年間の間,星を監視しとったんや。それでな,先代のアテナがわしに体を仮死状態にするメソピサメノスの術をかけたん。この術がかかったら体の心臓の鼓動の回数が少うなるんや。…そやね,大体1年で10万回くらいしかうごかへん。せやから激しい運動とかはできんし,飯もちびっとずつしか食えんようになるけど,老化はずーっとゆっくりになるんや。まぁたとえば243年やと,わしから見たらたったの243日になるんよ。ということは若い時のわしと一緒,ほんで目の前にいるお前と同じ言うこっちゃ」
童虎は得意げにシオンを見ている。
「これで互角やの」
「…」
シオンは渋い顔をした。
童虎が若返った今,2人の力はほぼ互角,勝負がつかないかもしれない。
つまりシオンも倒されるかもしれない。
「蘆山百龍波ー!!」
「スターダストレボリューション!!」
2人の力がぶつかり合うが,勝負がつかない。
「お前なぁ,なんぼ一時的なもんやとはいえ,無理矢理若い体でよみがえったからっちゅうてこんなことしてせこいんやないかぁー」
「せこいのはどっちよ!!あなたでしょうが私はあなたのズルのせいでどんなに辛い思いをしたというの」
「わしのどこがせこいねん。ワシほどの正正堂堂とした男がおるもんか!!」
「そうだ!!老師は卑怯なことをされたことはない!!」
紫龍も加勢して叫んだ。
これでは拳による戦いと言うより口げんかだ。
とうとうシオンは紫龍の顔をきっと睨んだ。
「…そう。そこまで言うのならいいわ。そこの青銅聖闘士のあなた,この際だから教えてあげるわよ。この人,あなたのお師匠様はね,さんざん私のことおもちゃにして私とおなかの子供を捨てたのよ!!」
シオンは童虎を指さして叫ぶ。
「…なっ」
若返った童虎は目を見開いて息をのんだ。
「シ,シオン,紫龍の前でその話は…」
「ほ,本当ですか,ろ,老師?」
紫龍もいきなりのことでぽかんとしている。
童虎は何も言わない。
気まずそうに押し黙ってしまった。
「ほら返事できないでしょう。図星じゃないの。この人は私を聖域に置いて中国に逃げたのよ。向こうで新しい女作ってよろしくしてたんでしょうよ。本当は妊娠した私の事が足手まといでこれ幸いとばかりに中国へ逃げたのよ」
「なんとっ」
紫龍は若返った童虎を凝視した。
「…ごめん。ワシが悪いんや…」
童虎は肩を落とした。
シオンは紫龍の方を見て,
「いい事?聖闘士が女の子に苦労させるのは,普通の人間の男が女の子を泣かせるのとわけがちがうわ。あなたもせいぜい気をつけた方がいいかもね」
そして再び視線を童虎に戻した。
「せやけどワシの話をちょっとだけ聞いてくれへんか」
童虎はシオンを見た。
シオンは黙っていた。
童虎はしゃべりはじめた。
「確かにワシはお前を置いて中国に帰った。だけどあのときはしょうがなかったんや。生き残ったんはワシとお前だけ。どちらかがハーデスの監視をしてどちらかが教皇になってアテナを守るしかなかったんや。信じてもらえへんかもしれんけど子供が出来たいうて聞いたときはほんまに嬉しかったし,別れたくなかったんはワシも同じや。せめて子供を抱えたお前に楽な方をさせたろうと思うてワシが自分から中国に行くことを決めたんや。せやけどお前のことを忘れたことはなかったでぇ。そら最初は結構遊びもしたけどあかんかった。お前みたいなエエ女なんかどこ探してもおらんかったわ。空しかったわぁ。お前から子供があかんようになったいう手紙を受け取った時はお前を見捨てたバチやと思うた。すぐお前のそばに行ってやったらよかったんやけど,ここを離れられへんかった,…お前が死んだいうてムウから聞いた時もほんまはすぐにでもここへ来たかったんや」
「…いまさら何よ。私も一緒に中国に連れて帰ってほしかったのに」
シオンの目は潤んでいた。
「子供のことはワシが悪かった…。死なせてもたんはワシの責任というのは分かっとる」
「…やめて。もう私も涙は枯れ果てたわ」
シオンの言葉は相変わらず童虎を突き放すような内容だったが,語気は明らかに弱くなり,先ほどまでの突っかかるような表情もなくなったことに紫龍は気付いた。
同時にシオンの事をなんてかわいそうな女性だろうと思った。
「紫龍」
「はっ」
童虎の方からいきなり話を振られて紫龍は気を付けをしてしまった。
「お前は星矢達を追うんや。あいつらはもうこっちに来とる。このシオンはワシに任せろ。こうなったらもう…何もできひんやろうから」
「は…」
紫龍はきちんと空気を読むとそっと童虎の横をすり抜けた。

その頃の処女宮。
シャカは夜は早い。
出入りのソーシャルワーカーの人が帰ると,することもないので早めにベッドに入ってしまう。
その日も何も知らずシャカはぐっすり眠っていた。
枕元の携帯電話が鳴った。
何かあってもすぐに知らせてもらえるようにシャカは枕元にも携帯を離さない。
ムウからだった。
声がおかしい。
「…アルデバランが…冥闘士の手にかかって…私はどうしたらいいの…助けて」
「今君はどこにいるんだ?」
「金牛宮にいます…」
「そこを動くのではないぞ」
携帯電話を切ってシャカはため息をついた。
なんということだろう。
ムウが冥闘士と接触した。アルデバランが倒されたという。
いよいよ冥闘士がこの聖域に現れたのだ。
来るべき聖戦が訪れたのだ。
手始めに自分たちの大切な仲間が殺された。
ムウは不安な思いでいる。
シャカは手探りで寝間着を脱いで乙女座の聖衣を着込むと,金牛宮へ急いだ。
ムウは金牛宮の広間で尻もちをついて座っていた。
「ムウ!!」
目の見えないシャカは気配でムウの場所を探って歩いて来た。
無事でよかったとシャカは思った。
ムウは何も話してはくれなかった。
ただ,ムウの小宇宙が何かに脅えているのが分かった。
ムウが鼻をすする音が聞こえた。
泣いているのが分かる。
涙を流してヒイヒイ息が苦しそうだ。
シャカはムウの背中を軽く抱いた。
「意地を張らなくていい。泣きたければ好きなだけ泣けばいいのだからここには私と…彼の亡骸しか…いない」
シャカは優しい声で言った。
「うぅぁぁぁぁぁ」
声の限りに泣いてばかりで何も言わないムウの顔をシャカは手で触った。
濡れていて,熱い。
「…もっとたくさん話したいことがあったんです。もっとたくさん一緒にいたかったんです…」
ムウは初めて言葉をシャカに投げかけた。
そのとき,シャカの両目が一瞬だけ開いたがすぐに閉じた。
シャカはムウから手を離すと立ち上がり,
「冥闘士どもはすでにこの中に来ているのだな」
「…はい」
―あの世の亡者共め,この私の手で送り返してくれる。
シャカは何か決心すると,
「ムウ,君はここでじっとしていたまえ。後は私が何とかしよう」
と,踵を返した。
何か策があるようだ。

ハーデス城。
冥界三巨頭の一角,ラダマンティスは,パンドラに呼び出されていた。
パンドラは電話の子機を持っていて非常に不機嫌そうだ。
こういうときはラダマンティスもあまり声をかけたくない。
「ラダマンティス」
「はっ」
「地妖星のパピヨンのミューと連絡が取れません。よもやお前が聖域に行くように命令をしたのではあるまいでしょうね」
確かにミューはラダマンティスの配下だが,あの通り尊大な性格なのでろくにラダマンティスの命令をきいたためしが,ない。
「いえ,とんでもございません。私は何も命令してはおりません」
「そうですか…ふむ,ところでサガ達5人の中に女性がいましたね」
「はあ」
「彼女を拘束しなさい」
「…え」
「人質ですよ。保障として女子供は人質に取っておくのですよ。殺してはいけません」
「しかしそれではかえって手間がかかりませんか。いっそ私が一人で…」
「なんですか。私のやり方に問題でもあるというのですか」
パンドラはラダマンティスを睨みつけた。
「…いえ」
ラダマンティスは最敬礼してパンドラの塔を降りた。
とりあえずミューの不祥事は問い詰められずにはすんだ。しかし厄介な注文を受けさせられた。
廊下がやけに静かであることに気づいた。
嫌な予感がして回廊を抜けると,警備の冥闘士達の累々とした遺体があった。
「これは…」
ラダマンティスは短時間でこれだけの冥闘士を一発で始末する何者かがこの中に侵入していることが分かった。
「何者だ。出て来い。望みは何だ」
すると,そこにはさきほど爆発したムウに吹き飛ばされたはずのデスマスクとアフロディーテが立っている。
「おい,ハーデスに会わせろ」
デスマスクはやくざらしくすごんだ。
「会ってどうするつもりだ」
「お前らのせいでとんでもない目に遭ったんだ。責任は取ってもらう」
「…」
ラダマンティスはアフロディーテのほうを見た。
じろじろ見られてアフロディーテはおびえたように体を小さくすくめている。
「おい無視するな」
ラダマンティスはデスマスクを無視してアフロディーテの顔ばかりを見ている。
彼女は飛んで火に入る夏の虫だ。
「パンドラ様がお前を拘束しろとのご命令だ。付いて来い」
突然,ラダマンティスはアフロディーテの手頸をつかんだ。
「きゃっ,離して」
「おい,アフロを離せ」
デスマスクはラダマンティスに鋭い小宇宙を向けた。
「積尸気冥界波!!」
しかしラダマンティスはデスマスクの積尸気冥界派など片手で受け止め,
「グレイテスト・コーション!!」
「ぐぉぉぉぉぉ」
デスマスクは悲鳴を上げ,床の上にぶっ倒れた。
「デスマスク!」
アフロディーテは叫んだ。
ラダマンティスは警備の冥闘士を呼んだ。
「どうせ放っておいても死ぬ。牢にでも閉じ込めておけ」
と命令して,悲鳴を上げるアフロディーテの体を軽々と肩に担ぐと,回廊を通り抜けて行った。
アフロディーテはラダマンティスの部屋に連れて行かれた。
パンドラの命令でアフロディーテを人質に取れ,と言われたが,ラダマンティスはアフロディーテを自分の部屋に軟禁した。
アフロディーテは最初は大騒ぎしたが危害を加えられないと分かると急におとなしくなった。
たった今ラダマンティスが入って来ても怯えることなくただ窓辺の棚の上に座っていた。
ラダマンティスはイスをアフロディーテの前に持って来て自分も腰かけた。
そしてアフロディーテの顔をじっと見て,
「俺が怖くないのか」
と問いかけた。
アフロディーテは小首を傾げてにっこり微笑んだ。
否定の返事と取ってよい。
「…そうか」
ラダマンティスはちょっと複雑な表情をした。
「…ここにいる黒い服の女の人はあなたの彼女?」
アフロディーテが初めてラダマンティスに声をかけた。
「何を」
とんでもない質問をされてラダマンティスは驚いた。
女性というものはときどき男性には考え付かないような突飛もないことを口走ったりするものだ。
「違うの?」
「違う。彼女はハーデス様の巫女だ。ハーデス様のお言葉を我々に伝える」
「そう。ずいぶん仲良さそうな気がしたんだけど。うふふ」
アフロディーテは笑った。
「随分余裕なんだな。怖くはないのか?」
「私が?…別に。だって私もう死んでるもの。ゾンビだもの。なんにも怖くないわ。それに下手に私がみんなと一緒に十二宮を突破しようとしたってみんなの足手まといになるだけだと思うの。私ここで彼が帰ってくるの待ってる」
「お前達を見ているとある白銀聖闘士の男を思い出す」
ラダマンティスはつぶやいた。
「確か5年くらい前だったな。一人の白銀聖闘士が一人でひょっこり冥界にやって来た。なんでも事故で死んだ恋人を生き返らせてほしいとかなんとか言って。バカみたいなヤツだと思った。自分も死ぬかもしれないのに」
「それで…その人はどうなったの?」
「冥界にいるよ。その恋人とやらと一緒に。死んではいないけど冥界から出られない。ずっと」
「でも二人でいられればどこにいたって幸せね。私もカミュと一緒ならどこだって怖くない。たとえそこが地獄でも」
アフロディーテは言った。
ラダマンティスはアフロディーテが理解できなかった。
そこまでして恋人というものは大切なのだろうかと思う。
たとえそこが地獄だとしても二人でいれば天国だ,といいたいのか。
それが普通なのかアフロディーテがお馬鹿なのか。
そしてカミュと言う黄金聖闘士がそれほど魅力的なのかと。
一度パンドラ様に呼び出しを受けた時ちらりと見かけたが,無口で無表情な優男だったとしか記憶がなかった。




その頃,サガとカミュとシュラは巨蟹宮に来ていた。
「ここはデスマスクの所でした。どうせ誰もいないですから,さっさと通り過ぎましょうよ」
サガが言った。
広間には大きなワインセラーの部屋があり,中にはびっしりとデスマスクのコレクションのワインが今も手つかずのまま残っている。
「そういえばデスマスクはどこにいるのだろうか」
カミュがぽつりと言った。
アフロのことは任せろ,と自分達より先に出発した。
「大丈夫だ。あいつは強い。伊達に修羅場をくぐりぬけてきただけじゃない。筋金入りのヤクザだからな」
シュラが言った。
「そうです。彼を信じて私達も先に進みましょう。アテナの為にね」
サガが2人にそう声をかけた。
「しかしおかしくないか」
シュラが言った。
「もうかれこれ10分くらい歩いているが,広間を抜け出せないぞ」
「おかしいですね。もう少し進んでみましょう」
3人とも黙っていたが,巨蟹宮に入ってから1時間は経過していた。
カミュは腕時計を見た。
「私達がここへ入ってきて3分ほどしかたっていないぞ」
「そんなバカなことがあるものか。俺達はたっぷり1時間は歩いているぜ」
「…」
サガは黙っていたが,
「少し待って下さい。つまりこれは実際には本当に3分しかたっていないのですが,私達は主観的に1時間たったと脳が判断しているわけです。つまりこれは時空をゆがめた幻影なのです。それは私のアナザーディメンションと同じ効果を持つ物です。ならばこの幻影を解くのも簡単でしょう。いいですか,今から二人共目を閉じて壁に寄りかかってください」
シュラとカミュは言われたとおりにした。
「壁を手で伝って前に進みましょう」
サガを先頭に3人は視界を遮り,壁伝いに前進した。
ものの10秒ほどで3人は巨蟹宮を突破した。

「何だったんだ」
「幻視から脳を守るために視界を閉ざしたのです。しかし思わぬところで苦労を強いられましたね。まったく彼らしい手を使う」
「サガはその犯人が分かるというのか」
シュラが聞くと,
「ええ。気付きませんか?このような手の込んだ真似をわざわざする男が一人いるでしょう。まぁいいですよ。そのうち彼とも対峙しなくてはいけないんですから」
とサガは笑った。

その頃,一人で金牛宮にいるのが心細くムウはシャカの所へ行こうと金牛宮を出た。
懐中電灯を照らして階段を上がる。
巨蟹宮まで来た時,誰かに見られているような気がした。
「誰かいるんですか」
ムウは震えながら懐中電灯を照らしたが,誰もいない。
「誰も出て来ないで下さいよ」
ムウはおっかなびっくりの及び腰で前を進んだ。
「!!」
ムウは何かに蹴躓いた。
派手に転び,顔と両手を打った。
「痛いっ」
ムウは額をおさえながら膝をついた。
立ち上がろうとするが,なぜか足が思うように動かない。
何か強い力で手足を引っ張られて動かせない。
こんなときにムウはよせばいいのに昔よく流行ったホラー番組を思い出してしまった。
霊による金縛りだ。
そう,これが金縛りと言うものなのだ。
ムウは心の中でとっさに南無阿弥陀仏を必死に繰り返した。
お経は分からなくても南無阿弥陀仏と唱えればよい,といつもシャカが言っていたのを思い出しながら必死に唱えた。
ところが金縛りは収まるどころか,何かの力に寄ってムウの体は浮き上がり,壁に押し付けられ,まるでの昆虫採集の標本の蝶のように動けなくなった。
「ははは,ざまぁねぇな」
人間の声がした。
ムウはその時,これが幽霊でもなんでもない,人為的なものだと気付いた。
「誰ですか」
ムウの前に大勢の冥闘士を連れた大柄な冥闘士が現れた。
「俺は地暴星サイクロプスのギガントだ。アンタがアリエスのムウだな。悪いけどコッから先は行かせねぇよ」
「冥闘士の貴方がたがどうしてここへ来たのですか」
「それを知ってどうする。悪いけどべらべらしゃべると俺が怒られるんでな」
「おやおや貴方も大変ですね。あなたの上司は随分恐ろしい人なのですか」
「そうよ,ラダマンティス様はとんでもねぇ方だよ。若いのに冥界で3本の指に入る実力者さ」
ラダマンティス,ムウは初めて聞く名前だった。
恐らくその男が冥界の中の幹部の一人に違いない。
このギガントの口ぶりからおそらくそのラダマンティス様とやらが実働部隊隊長的な役割であると考えてよいだろう。
「しかしそんな実力者であるならば,なぜここに姿を現さないのですか。どうせ怖くてどこかに隠れて震えてるんでしょうねぇ」
「ば,バカ言っちゃいけねぇよぉ。ラダマンティス様はわざわざここに来るまでもないんだ。ラダマンティス様が勝手に動いたらパンドラ様も黙っちゃいないわな。大体今度の作戦だってアテナの首を持ってこいと言ったのはパンドラ様のご命令なんだからな。ラダマンティス様はハーデス城でサガ達がアテナの首をもってくるのをお待ちになっているのさ」
パンドラ,と言う初めて耳にするその人物こそが今回の黒幕に違いない。
「なるほど,それではあなたがたはパンドラ様のご命令を受けて動いているのですね」
「だから,違うってばよ。アテナの首を取ってこいといったのはパンドラ様だが,パンドラ様はその役目はあくまでサガ達のみに任せておいて俺達正規ハーデス軍は動いちゃなんねぇってご意思だ。だけどラダマンティス様はもともとアテナの聖闘士だった,サガなんか信用できるかってんで,俺達にその監視の命令を下したのさ」
「…なるほどそうだったのですか。ありがとう,お陰でさまでよくその状況が飲み込めました」
ムウが頭を下げた。
「おう,分かったか!…ってしゃべっちまったじゃねーか!!」
ギガントはかんかんだ。
「…まぁいい。しゃべったところであんたは今ここで死んでもらう」
「…待て!!俺も話は聞いたぞ」
ムウの耳に聞きなれた声がした。
「助けに来たぜ」
星矢が立っている。
吹き飛ばされたはずなのに運良くどこかに引っかかったのだろう。
「おバカさん。帰りなさいと私は忠告したのですよ」
「帰るもんか。俺達友達じゃん。どんな事があっても助けるもんだろ。それにもう足手まといじゃないんだぜ。紫龍も今ここに着いたって電話があったし,瞬と氷河ももうすぐここに着くんだ。さぁ,どこの誰だかしらねぇけどかかってこいや。相手してやるぜ」
星矢は余裕の笑みで冥闘士を手まねきした。
「かかれー!!」
「星矢!!」
ムウは叫んだ。
そのとき,
「待たれ」
と甲高い男の声がした。
柱の陰から,色鮮やかな蝶の羽を背負ったピンク色の髪と目をしたまるで女性のような風貌の美青年が現れた。男性でありながらその高貴な気配は古の平安時代の姫のような気高さがある。
彼もまた,冥衣をまとっている。
「主らの仕事はこんな所で死にぞこないをいたぶる下衆な仕事ではないでおじゃろう。さっさとサガ達を追うのじゃ。さぁ,早く行きゃれ」
「…くっ」
ギガントは美青年を睨もうとしたが,どうやら冥界での地位はこの青年の方が上らしく,ギガントは,
「おい,行くぞ」
と部下を促して通り抜けて行った。
同時にムウの縛めも解けた。
「さて」
青年はムウと星矢を振り返る。
「わらわは地妖星パピヨンのミューじゃ。よろしゅう見知り置け」
「お前もラダマンティスの命令で来たのか」
星矢が尋ねると,
「わらわがか?ほほ。見くびるでない。わらわがラダマンティスなどの命令など聞くものか。わらわはアテナの首など興味がないわ。そうさのう,わらわの目的は主じゃ」
ミューは細い眉を緩め,ムウを見た。
「牡羊座のムウよ。わらわは主と拳を交えてみとうて参ったのよ。わらわと勝負いたせ」
「…」
ムウは見るからに怪しい相手に警戒していた。
「ムウ,俺も助太刀するぜ」
「小童は黙っておれ」
ミューは星矢に向かって糸のようなものを飛ばした。
「うあっ」
あっという間に星矢の体は糸に包まれ,繭のようなもので覆われた。
「あっ,星矢」
「ほほ,その繭はたやすくは壊れぬ。この小童を助けたくばわらわを倒すしかないのう」
「…仕方ありませんね」
もともとムウは余計な殺生は好まない聖闘士だった。
できるだけ戦いには参加せず,ただひたすら白羊宮を守ってきた。
今だって目の前にミューがいるのにたとえ相手が敵であろうとあまり戦いたくはないのだ。
しかし星矢が繭に閉じ込められてしまった。
このままでは星矢が衰弱してしまう。
どうしたものか。
ムウはおろおろしていた。
突然,繭にひびが入り,ポン!という音がして星矢の手が突き出た。
ムウが慌てて星矢の手を引っ張った。
繭のひびが大きくなり星矢の顔が出てきた。
「ほら,がんばって」
ムウは星矢の体を引っ張り出した。
「苦しかったぜ」
星矢は呼吸を整えた。
「さあ今度はお前に苦しい思いをしてもらうぜぇ」
星矢が身構えるとミューは首を振った。
「勘違いしてもらっては困るのぉ。わらわは主のような小童に興味はないのじゃ。構わぬ,行きゃれ」
「そんなこと言ってひっこんでられるか」
「いいえ。星矢,貴方は先に行ってて下さい」
「なっ」
「この人の目的は私と戦うことです。ならば相手をしなくてはいけません」
「でもムウは戦うのは苦手だって言ってたじゃないか」
「そうです。確かに私はこういうことが苦手なんです。でも私だってアテナの聖闘士ですから,やってみます」
ムウは言い出したら聞かない頑固者だということは星矢もなんとなく気付いていた。
「うん。必ず後で来てくれよな」
星矢はそう言って去って行った。
ムウはミューに向き直った。
「さあ行きますよ」
そのムウの周りを金色の蝶が取り囲んだ。
「これはフェアリー。わらわのペットじゃ。こやつらが主を黄泉へ案内いたす。フェアリースロンギング!!」
無数の金色の蝶がムウに向かって来た。
ムウはミューに反撃をするどころかびっくりしてどこかにテレポーテーションで消えてしまった。
「む?テレポーテーションで逃げたのじゃな」
ミューは余裕そうに言った。
「じゃがの,主がどこに隠れておろうと必ず見つけ出すのじゃ」
町は四方を飛び回り,やがてミューの目の前3メートル先で止まった。
ムウが姿を現した。
「そこか。フェアリースロンギング!!」
またムウは消えてしまった。
こんなことを数回繰り返しているとミューはなんだかおかしいなと思った。
大体ムウはテレポーテーション能力があるのだからその気になればどこへでも遠くへ逃げられるのになぜミューの半径2メートル内を行ったり来たりしているのだろう。
ムウの所へ次にフェアリーが取り囲んだ時,ムウはなぜかにこにこしていた。
「すみませんねぇ。お仕事終わりました」
「何を言っておる」
ミューが進み出た時,足が動かないことに気づいた。手も動かない。
みるとミューの全身を蜘蛛の巣のようなものがわたあめのように覆っている。
「これはクリスタルネットです。サイコキネシスで少しずつ作った糸であなたをからめとりました。もう動けませんよ。ですからもう私を襲わないでください。私は戦うのが嫌いなんです」
ムウは本当に懇願しているようだった。
「何を」
ミューはもう一度フェアリースロンギングを放つべく片手を上げた。
「ああ,やめて下さい。今あなたが技を出せば本当にあなたが死んでしまいます。それともあなたがたはゾンビだから死ぬの怖くないんですか」
ムウはおろおろとした口調で言った。
「無礼な。わらわはゾンビではないわ。主らと同じ人間よ。もともとわれら冥闘士は108の魔星が復活することによってその体に冥闘士としての魂がよみがえったのじゃ。ゾンビになってアテナを裏切ってまで命が惜しいサガ共とはわけが違うのよ。今後こそあの世へ行くのじゃ,フェアリースロンギング!!」
「お願いだからやめて下さい!!攻撃する前に周りの様子をよく見て」
ムウが悲鳴のような声を出した。
あまりにムウが金切り声でしゃべるのでミューも思わず自分の身の回りをきょろきょろした。
すると,自分を縛っているクリスタルネットに武器でありペットのフェアリーが全部からみついている。
「ええっ」
「これであなたの攻撃手段は奪いました。どうか降参して下さい。そうすればあなたのことをいためつけたりしませんから」
ムウのおどおどした弱弱しい言葉遣いと態度はミューの神経を逆なでした。
「こっ,こしゃくなぁ!!フェアリースロンギング!!」
「きゃあ,来ないで!!スターライトエクスティンクション!!」
ムウは初めて両手から金色の光を放った。
光はミューに命中し,そのまま吹っ飛んで行った。
1人になったムウはくたびれて床に尻もちをついた。
怖かったと思った。
それでも先に行った星矢とすぐ近くにいるアイオリアが心配になる。
疲れてはいたがムウも後を追うことにした。


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