自称モテ夫さんのミロは朝帰りで,疲れて寝ていた。
正確に言えば起きていたけれど,ごろごろしていた。
インターホンが鳴ったような気がしたが,正直応対も面倒だ。
受話器を取り上げ相手の名前も聞かずに,
「勝手に入ってくれば」
と言う。
すぐにドアが開く音がして,足音がする。
すると,ミロの足元に見なれた足首があった。
「何だよ,カミュかよ」
カミュがビニール袋を風呂敷のように一つ下げてミロを見下ろしていた。
今日はシンプルなモチーフ編みの生成のハイネックのセーターを着ている。
アフロディーテの趣味だろうか。
そういえばもう11月なのだ。
「随分とお疲れのご様子じゃないか」
カミュが皮肉を言った。
「実は,アフロディーテがジャムを作っていたんだ。お前の所にも持って行けって言うんだ」
カミュはそう言って瓶を置いた。
どうやらバラの花を煮詰めて作ったもので,綺麗なサーモンピンク色をしている。
「トーストとかに塗って食うかな」
「それもいいが,私は炭酸で割って飲むのが好きだ」
カミュは勝手に冷蔵庫を開けると,サイダーのペットボトルを出してきてグラスに注ぐと,ジャムをのせてつぶした。
「飲んでみてくれ」
ミロは言われたとおりにした。
ジャムの香りがほんのりして,炭酸の中に甘酸っぱい味が心地よい。
なんだか体の疲れも取れるような気がする。
「あ,なんかこれいいな」
「だろう?私が夜勤明けで疲れているといつもアフロディーテが作ってくれる。眠気も吹っ飛んで頭もクリアになる」
アフロディーテの話をする時のカミュは本当に嬉しそうだとミロは思う。
カミュはもともと表情は豊富な方ではない。
激こうすることもなければ,大笑いすることもない。
だがミロはカミュとずっと一緒にいるから,他人では気付かないようなカミュの表情の変化もなんとなく分かる。
決して露骨に表情に出ているというわけではないが,アフロディーテの話をするときのカミュは,なんとなくその氷のような無表情の目が一瞬だけ,雪解け水のように穏やかになる。
ミロは何も言わないが,カミュにアフロディーテという彼女ができて本当に良かったと思う。
美形だけどいつも陶器の人形みたいな固まった顔をして,愛想や洒落の一つも言わず,なんとなく自分を閉ざしているような雰囲気だったから,いつも理由なく緊張している印象しかなかった。アフロディーテと出会って少しはその張りつめた気持ちも解けて心も緩和しているかもしれない。
「で,夜勤明けにこれで元気を付けてアフロディーテとよろしくやるんだろう」
「何のことだ」
「はぐらかすなって。だから,そういうことだよ。男と女がお布団の中でやることと言ったらそれだろう」
カミュの青白いほっぺたが赤くなった。
「ミロ,お前はなんてことを言うのだ。彼女はそんな下品ではないぞ」
「え?じゃ,お前,アフロディーテとは全然?」
「当然だ」
「でも結婚する気はあるんだろう」
「け,けっ結婚」
カミュの深みがある上品なバリトンが裏返った。
真っ赤な顔をして目は飛び出しそうだ。指は震えている。
ミロは何かに気付く。
しかしカミュの性格をよく知っているミロにしてみれば,なるほどさもありなんと思わないこともない。
くそまじめで杓子定規な男だ。
なるほど,とミロは思った。
「でもさ,いずれはその予定なんだろう?」
すると,カミュの顔が赤くなったり青くなったり信号みたいになった。
「…わ,私はそのつもりだが彼女がどう思っているか」
カミュはしどろもどろだ。
こんなカミュはめったにお目にかかれない。
普段は無表情で卆なく仕事をこなし,何一つ抜け目のないカミュでも,アフロディーテのこととなると初恋の真っただ中にいる少年のように恥ずかしがったり落ち着きをなくす。
「分かったよ,分かったってば。じゃあさ,せめてプロポーズの練習とかしといた方がよくない?」
「ああ…考えたことはなかったな」
カミュは口をモグモグさせながら返事した。
ミロはふとこれはカミュをからかえる材料になるかもなと思った。
「じゃ,さ,俺がいろいろ教えてやるからさ,ちょっと練習してみねぇ?」
「今からか?」
「そ,そ」
カミュはモゴモゴ言っていたが,決心したらしい。
「分かった,よろしく教授してくれ」
カミュはしおらしく頭を下げた。
「オッケー,ニヒヒ」
普段からいつもカミュには頭が上がらないから,こういう時にこそ俺が優位に立てるものだとミロは思っていた。
「とりあえず俺をアフロだと思ってみ」
「お前がか?ずいぶん薄汚いアフロディーテだな」
カミュは露骨に眉を顰めた。
「は?何言ってんの。某巨大ロボットアニメじゃ俺の方がイケメンなんだぜ」
「何?」
「あ,いや,こっちの話」
「そ,そうか」
カミュは姿勢を正した。
「えーっと,何から言っていいのか分からないな」
「何からって…なんでもいいから好きだってことを話さなくちゃ」
「…えーっと,そうだなぁ,ステーキとカレーとニシンそばとユッケとみかんが好きだな。毎日食べても飽きないな」
「違う違う!!すきなたべものの『好き』じゃなくて,アフロが好きだってことを言わないと。甘い言葉を掛けてだな」
「甘い言葉?」
カミュは少し首をひねってから,
「…生キャラメル,ロールケーキ,マカロン,ルタオのチーズケーキ」
「…待て,待て,待て」
ミロが慌てて手で制した。
「それは言葉が甘いんじゃなくて,甘いものの名前を羅列してるだけじゃん。お前は食いもののことしか頭にねぇのか」
ミロの予想を超えたカミュの勘違いぶりはひどいようだ。
ミロはカミュの顔を見た。
黙っていれば美形だし,頭がいいので仕事もできる。しかしこういうことに関してはほとんど要領を得られないカミュは困った生徒だった。
「しょうがねぇ,お前はもう言葉でやるのはダメだ。男らしく態度で行こう」
「態度?」
カミュは不安そうな顔をした。
「こうがばっ,と肩を抱いて見つめるとか」
「こうか?」
カミュはミロの肩をつかんで目を合わせてきた。
思わずじっくり目を合わせてしまってミロはちょっとだけどきっとした。
今までずっと一緒にいたけど,じろじろ顔を見たことがなくて,今初めてカミュの顔をじっくりと見た。
本当に綺麗な顔だった。
海色のサラサラのストレートロングの髪の毛に細くて整った眉に平行にくっきりとした二重のシントメリーな宝石のような青い目,彫刻のような鼻,上品な口元,手足がとても長く,指もあまりごつごつしていなくて細長い。なるほどこれだけの美男子なら,アフロディーテが見た目で一発で一目ぼれしてしまったのは納得がいく。
―やばいぞ,なんかどきどきしてきたぞ。
ミロはちょっと焦っていた。
ゲイでなくてもミロのように女遊びが大好きでもカミュの目に見られたら少し困ってしまう。
なるほどな,とミロは思った。
そもそもカミュはそういう男なのだ。
甘い言葉も優しい言葉も語らず,ただ相手の方を見るなり手を握り締めているだけで十分相手はカミュを好きになってしまうのだろう。
ずるいようだが美男子とはそういうものだ。
「…で,どうすればいいんだ」
「どうするも何も相手が抵抗しなきゃキスするなり押し倒すなり好きにしろ」
「そ,そうか」
カミュはミロを抑えつけ,床に倒した。
「うわっ」
突然だったのでミロは頭を打った。
「…キス,すればいいんだな,ようし」
カミュはこれも練習だと思っているのか独り言で確認して深呼吸をした。
ミロの鼻にカミュの息がかかった。いつも歯磨きをこまめにしているのか清潔なミントの香りがする。
ミロはある意味で絶体絶命だった。
しかし今,やめてくれとカミュを押しのけようとすることはできなくもないはずなのに体がちゃんと動かない。
「あわわわわ」
ミロは言葉にならない叫び声をあげている。
怖かったのはカミュではなくて抵抗できない自分だった。
そのとき,勝手にドアが開いて誰かが入ってきた。
「カミュ,こんなところで何をしているの」
スーパーのレジ袋を提げたアフロディーテがカミュの背後に立っていた。
「ミロにいろいろと教えてもらったんだ」
カミュは何事もないように立ってアフロディーテに向き直った。
ミロは助かった,と思った。
「それより今日はカレーよ」
「本当に?手伝おう」
カレーという言葉を聞いたカミュの顔は子供のように明るくなった。
「それじゃミロ,また後で」
カミュはあっさりとミロに手を振りアフロディーテと一緒に出て行った。
ミロは動悸を抑えながらひとりぽつんと残された。
ほっとした半面,なんだか自分がおかしい。
あのままアフロディーテがカミュを連れに来なかったらどうなっていたのだろうか。
その後の展開にちょっとドキドキしながら座っていると,再びカミュが訪れた。
「わっ」
びっくりして後ずさるミロだが,カミュはいつもの様子と変わらない。
「何を言っている。カレーができたぞ。よかったら一緒に来い」
どうやら呼びに来てくれたらしい。
「あ…うん」
ミロは頭をかいてカミュの後ろを歩いた。
ミロはさっきの一連の事件がまるで自分の思い違いか夢を見ていたのかと思った。
カミュはその時のことは一切言わないし,無言でミロの前に立って階段を上っている。
そうなるとなんだかミロも安心してきて自分もおかしな夢を見ていただけだったと思いこむようになっていた。
カミュの足が魔羯宮の横を抜けた時,ふいに顔をこちらに向けた。
「そうそう,ミロ,さっきの練習,また頼むぞ」
「ひぇっ」
カミュの言葉を聞いてミロは背中がチリチリする。
せっかく忘れようとしていたのに,勘違いだと思っていたのに,再び引き戻されてしまった。
「私はこういうことは苦手なのだから」
苦手なもんか,とミロは言い返そうと思った。
「…とにかくだ。お前は早く結婚しろ」
ミロは逃げ口上を言った。
「私もそう思う」
カミュはすぐに認めた。
「だからこれからも私のサポートを頼みたい」
カミュは軽くミロの手を握った。
だからよせってば,と叫びたい。
宝瓶宮の入り口でカミュはミロの手を離した。
「アフロディーテ,ただいま」
カミュは何事もなかったかのように玄関へ入った。
ミロはカミュは本当はとても意地悪なのではと思った。
あのときカミュはどんなつもりでミロの顔に迫って来たのか,ただの練習のつもりだったのか,それとも他に何か意図があったのか。
アフロディーテの指示を受けてお皿を運んでいるカミュを見ればその真相はやぶの中だ。
ただ,ミロにとってカミュは早くアフロディーテと結婚してもらった方が自分の気が楽だとはっきりと思った。


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