真昼のよろめき


今日もカミュは教皇の使いでアテネのギリシャ正教会の本部に出向いたが,帰りに酷い夕立に見舞われ,濡れねずみになってしまった。
 
 
カミュは車を飛ばして聖域に帰ると,宝瓶宮に急ぎ足で戻った。
濡れた服を脱いで,髪の毛や体を拭いていると,インターホンが鳴った。
「…はい」
シュラかアフロディーテかと思い,バスロープを羽織って出た。
ムウだった。
「あ,カミュ」
ムウは赤い傘をさして,口をアルファベットのOの形にしている。
普段はカミュといえば聖衣を着ていないときでもかっちりとスーツを着て,シャツのボタンも首までしっかりとめる男だ。
それが素肌の上にバスローブを羽織って出てきたのだから,ムウがびっくりしたのも無理ない。
「あの,引き継ぎの書類を持ってきたのですよ」
「ああ受取ろう。こんな遠いところまですまないな」
「いいえ…」
ムウはカミュに書類を預けて逃げるように帰った。
階段を降りる間,ムウは何度白羊宮までの道すがら,転びそうになったことか。
ムウは本当にどきどきしてしまった。
以前から綺麗な顔だとは思っていたが,体もとてもしなやかで綺麗だった。細身だが,それでいてしっかりした男性的な骨格だった。
それがバスローブだけを羽織っていきなり現れた。
それだけのことなのにムウはどういうことか慌ててしまった。
白羊宮に帰って冷たい水で顔を洗った。
―いけない,いけない,私としたことが何を考えているのでしょう。
ムウはタオルで顔を拭いてダイニングに座った。
貴鬼は数日前から子供サマーキャンプに行っている。
本当に今ここに貴鬼がいなくてよかったと思った。
 
 
その数日後,ムウはカミュと偶然ショッピングモールで出会った。
カートを押して食料品売り場を歩いていると,お総菜コーナーに立っているカミュを見かけた。
先日のことを思い出し,顔がほてったムウだったが,勇気を出して声をかけた。
「カミュ,どうしたんですか」
「アフロディーテが仕事でいなくてね。スーパーで適当に食べる物を探そうかと思って」
「あら。それでしたらうちで召し上がって行かれません?今日は私一人なんです」
「それじゃあなおさらお邪魔するわけにはいかないな。迷惑がかかる」
「いいえ。私の方こそお願いしたいくらいなんですから。寝るまで私一人で心細いし退屈ですから誰かお話相手がいて下されば嬉しいんです。御迷惑でしたら仕方ないですけど…」
ムウがそこまで言うなら,とカミュはうなずいた。
別に男性同士なので何も気にすることはないのだ。
それではとカミュはムウの買い物のエコバッグを代わりに持ってやり,乗って来た自転車を車のトランクに積んでくれた。
助手席に乗るとふんわり甘いイチゴのようなにおいがした。
アフロディーテの香水の匂いだとムウは思い出した。
「いつもあんな重たいバッグを自転車に乗せて帰るのか」
ハンドルを操り,顔は正面を向いたままでカミュが聞いた。
「はい。普段は貴鬼も一緒ですから彼が少しはお手伝いしてくれるんですがね」
「大変だな」
自然にカミュはその言葉が出た。
「カミュこそ,アフロディーテの買い物にはついて行くんですか?」
「ああ。たいてい二人で行ってる。アフロディーテは運転が危なっかしいし,荷物が多いから一人じゃ大変だ。帰って来てから冷蔵庫にしまうまでが私の仕事だ」
と,カミュはクスリ,と笑った。
でもその苦笑は幸せそうに見える。
「大変ですね」
ムウのその言葉はまるで仲がよさそうでごちそうさま,といった意味だ。
「いや,そうでもないよ」
カミュはムウの皮肉にも気付いていないようだった。
「案外一緒に出かけて行って用事を言いつけられるのも悪くないものさ。たまにはアルデバランにも手伝ってもらったらどうだ?」
「ええ。アルデバランは買い物やお出かけの時も車に乗せてってくれるんです。でも彼はフルタイムで働きに出ていますし,夜勤も多いですから」
「そうだな」
白羊宮に着くと,カミュはムウのエコバッグを運ぶだけでなくて,冷蔵庫にまで荷物を詰めてくれようとする。
「いいえ,カミュ,貴方はお客様なんですから,座っていて下さい」
ムウは慌ててカミュをダイニングの方へ押しだした。
冷蔵庫のドアにアルデバランの勤務予定表が
マグネットで留めてあり,その隣には貴鬼の夏休みの予定表とサマーキャンプの日程表も留めてある。
その日程表によるとサマーキャンプは,明日の朝帰って来るらしい。
カミュはムウにキッチンから追い出されてしまったので,ダイニングに座ってテレビを見ていた。
テレビでは,古い韓国ドラマをやっていた。
「カミュ,お酒は冷やでいいですか?」
ムウが対面キッチンから顔を出す。
「いや,お構いなく」
カミュが微笑み返した。
ムウは冷や酒と枝豆を出した。
「アルデバランが勤務先でお酒とかよく貰うんですけど,あの人ビール派だからお酒あんまり飲まないんです。だから家にお酒を放っておいてるともったいなくてね」
カミュはよく冷えた日本酒を喉へ入れた。
ムウはカミュに肉じゃがや高野豆腐や筑前煮を食べさせてくれた。
「…あのもしかしてカミュはお酒はそんなに飲まないのですか?」
「…父親がひどいアルコール依存症でな。そのせいだと思うが,酒瓶を見ると苦い思い出しかない。…それでも嫌いではないようだ」
と,カミュは自嘲気味に笑った。
その笑顔ですら,見ているだけでとろけるように美しい。
「…ようだって…まるで他人事ですね」
「そういえばムウこそ酒は飲まないんじゃないか」
カミュは過去に何度かここで食事をごちそうになったことがあるが,ムウはどんな時も酒は飲んでいなかった。
「飲めないことはないんですけど,飲まないようにしているんです。貴鬼もいますし。私が酔っ払ったら大変でしょう」
ムウはモゾモゾうつむいて言った。
「でも,今日は一人だろう。少しくらいは飲んでもいいんじゃないか」
カミュが白い歯を見せてグラスに酒を注いで渡した。
 
 
酒の力はすごい。
一時間も一緒に飲んでいれば,すっかりお互いの垣根も解けて色々な話ができるようになっていた。
まるでずっと昔からの親友だったみたいだ。
カミュはアルコールが入ると急に多弁になるということも分かった。
「…高校の頃,近くの農家のトマトをミロと一緒につまみ食いしたことがある。それで農家の人間に見つかって追いかけまわされて,その時とっさに私がロシア語をしゃべって言葉が分からない出稼ぎ労働者のふりをして逃げたんだ」
「まあそうなんですか,フフフ」
「シベリアにいたときはアイザックと氷河を原付の前と後ろに乗せて帰ろうとしたら警察に見つかって,“止まりなさい”って追いかけられて,そのときに私が考えたのは二つ。警察に従うか逃げるかだ。普段の私なら大人しくとまったかもかもしれない。しかしアイザックと氷河が怯えているのを見て,私はなぜかアクセルを回した」
ここでカミュは整った顔を崩して大笑いした。
「もう無我夢中だった。パトカーの通らない路地を選んで走りぬけて無事に帰宅した。子供達の前でちょっとモラルに外れたことをしたが,あの時は私も必死だったよ」
普段のまじめそうなカミュとは違う過去を聞いてムウはなんだか得した気分になった。
「…ところでカミュはアフロディーテとは一緒にお酒を飲んだりしてこういう話はするのですか?」
「アフロディーテにはあまり無理に酒を飲ませないようにしている」
赤い顔のまま急にカミュはまじめくさった声で答えた。
「アフロディーテは腸が弱いらしくてな,だからあの通り痩せているんだが,以前みんなで食事に行った時に他の人と同じペースでカクテルやウイスキーを飲んでいたらひどい下痢をしてね。あの時は本当にびっくりしたよ。今では二人で外食に行った時などに少しずつワインを飲ませるくらいしかできない」
ということはアフロディーテはカミュのこんな顔を知らない可能性だってある。
ところがふとカミュは素面になって,
「おっと。こんな話をしていたということは彼女に内緒にしてくれ」
と急にしまったというような顔をした。
「それでも彼女を愛していらっしゃる?」
ムウは意地悪な質問をした。
「それはもちろんだ」
カミュは戸惑うことなかった。
「彼女は本当に素晴らしい女性だ。本当にこんなに近くに住むことがなんだか運命のような気がしてきている」
「なら彼女は幸せですね。あなたみたいな人に愛されて。ちょっとうらやましい」
ムウは酔っ払っているのか珍しくすねた口ぶりをした。
「…ムウにも貴鬼がいるじゃないか」
「そうでしょうか?そうですね。私にとって今はあの子だけが生きがいなんです。でもいずれ大きくなったら私から離れていくんでしょうねぇ」
「…」
「私はその時が来るのが怖いんです。今も毎日一人で白羊宮にぼーっといるんです。貴鬼は学校だし,アルデバランは仕事に行っているし,テレビを見ているかたまに用もないのにスーパーをうろうろしたり。聖衣の修復仕事が入れば忙しくなるけれど話し相手もいないしね。夜一人でおふとんに入っても天井を眺めて不安で眠れなくなります。私このままずっとこのままなんだろうかって思います」
「確かにそうかもしれないが,貴鬼はムウのことを本当の親よりも自分の親として思っていると思うが」
「本当の親…ですか。ねぇカミュ,あの子をどういういきさつで私が引き取ったかご存知ですか?」
「親戚か?」
「いいえ,あの子と私は血のつながりはないんです」
ムウはそう言ってグラスの酒を飲み干した。
完全に酔っ払っている。
息をぷはーと一度だけ吐いて何かを決心したように以下のことを話した。
今から8年前,その頃ムウは,ラサの大手建設会社の秘書課にいた。
そのとき,営業課の妻のある人と不倫関係になった。
ムウは頭では不倫はいけない事だとは分かっていたものの,若かったこともあってそのときはあまりにも相手の男性に対して夢中になりすぎたあまり,周りのことや相手の配偶者のことやばれたときのことなど頭になかった。
ムウは男性が妻と別れなくても構わなかった。ただ今の関係がずっと続いてもいいと思っていた。
仕事の出張にかこつけて二人で何度か旅行にも行ったりなどもして,ムウはそれだけで幸せだった。
ところが,ある日何も知らないムウは相手の男性に呼び出され,別れ話を切り出された。
来月妻が出産するので,君とはこれまでにしたい。
その時ムウは相手の男性に子供ができることを初めて知った。
そして頭のいいムウはそこで気が付いた。
結局自分は不倫相手の妻が妊娠中の間の慰みものにされたのだ。なるほど,見た目はほとんど女性と変わらず,それでいて男性なのでまず妊娠しない。ある意味相手にとっては好条件で,かっこうのおもちゃにされたのだ。
ムウは本当に悔しかった。自分の今までの恋心や相手を思う愛しい気持ちをすべて否定されてしまった。
ムウは手切れ金も一切受け取らず,すぐにその場から帰った。
その後も男性からの詫びの電話やメールが何度かきたがムウは無視し続けた。
社内でも絶対に顔を合わさないようにしていた。
ところがある日,毎日何度も来る男性からのメールがぴたりと止まった。
不思議に思ったが,きっとあきらめたのだろうと気にしていなかった。
次の日,ムウが出勤してくると,同僚の社員が,
「ねぇねぇ,知ってる?うちの会社の営業3課の○×係長が昨日奥さんとお子さんの3人で車に乗ってて交通事故にまきこまれたらしいわよ。○×係長と奥さんは即死だったんだって。赤ちゃんかわいそうよね」
と言った。
ムウは驚いて営業課で事故のこと,たった一人生存した子供の保護されている病院を聞いた。
事故は産婦人科の病院から退院した妻子を乗せて帰宅する途中に高速道路で車がエンコしてしまい,路肩でロードサービスを待っている間に後続のトラックに追突されたそうだ。
連れていた子供は座席と座席の間に挟まれ,それが緩衝材になって助かったらしい。
ムウは会社を早退し子供が保護される病院へ行った。
生後一週間の猿のような子供を見てムウはこの子供の将来を考えた。
両親を失い,身寄りのなくなった子供は児童相談所に連れて行かれるだろう。
この世に生を受けながら一瞬にして両親を失ってしまった。
それを考えるとムウはとても切ない気分になった。
自分を裏切り遊んだ彼は許せないけれど子供に罪はない。
それに彼といた時間はムウにとっては本当に幸せだったのだから。
ムウはしばらく考えた。この子を引き取ろうと。
ムウは医師に相談して自分は死亡した子供の父親の親友だったと話し,子供を引き取ると申し出た。
男性に突然の別れを告げられ,その人自身も失ってしまったムウにはもうすがるものがない。
自分がこの子供を引き取ることで自分もまたこの子供に救われるのではないかと。
手続きが終わるまで子供は病院に預け,病院を後にする頃,担当の看護師が言った。
「それが不思議なんですよね。この子をくるんでいた車の座席がトラックに追突されたとはいえ,ありえない方向にひん曲がってその子の周りを守っていたんです。奇跡というか,超能力というか,不思議なこともあるもんですねぇ」
ムウは驚いて赤子の顔をじっと見た。
生まれたてのえい児なので猿のような何の変哲もない顔である。
しかし,もしかしたら生まれつきこの子供もムウと同じサイキッカーかもしれない。恐らく鍛えればそれなりに強くなるだろう。
生まれ月からしても牡羊座の守護星を持つ。これは本当に偶然だろうか。
 
帰りの電車の中でムウはこれからの身の振り方を真剣に悩んだ。
このままこの子を抱え,一人でこれからもこの会社で働いていくのか。
そのとき,ムウの中で選択肢が一つ増えた。
それは黄金聖闘士として聖域に戻ること。自分の師が死亡してから辛くて住めなかった聖域にもう一度この子供と戻ること。
もちろん牡羊座の黄金聖闘士は自分しかいないわけで,聖域に戻れば歓迎され,今よりも桁違いの給料ももらえる。
自分たち2人が生活していくには十分過ぎるだろう。
一般的な会社勤めと違って黄金聖闘士は自分の管轄地を守るだけが仕事なのでつきっきりで子育てもできる。
電車がアパート近くの駅に着く頃にはムウはもう決断をしていた。
その日のうちにムウは聖域の事務課に連絡をして自分が聖域に戻ることを告げた。
そして次の日,出勤して上司に退職願を出し,月末までに全ての仕事の引き継ぎを終わらせた。
そして子供が生後1カ月を過ぎるのを待って,病院に引き取りに行き二人で聖域に戻って来た。
聖域の事務員も雑兵も黄金聖闘士もムウが子供を連れていることに詳しいことも聞かず,むしろ色々気遣いもしてくれ,隣人のアルデバランに至っては積極的に子守りを手伝ってくれ,ムウはやっぱり聖域に帰ってきてよかったと思った。
あれから8年間変わることなく,ムウ達親子二人は安穏と幸せに何不自由なく暮らしているのだ。
 
 
「そんな事情があったのか」
カミュは少し酔いから覚めた顔で感想を述べた。
「ですからねぇ,私は本当はそんな人間なんです。ショックを受けたでしょう?」
「別に。むしろ貴鬼を引き取って育てて立派だと思うが」
「そう思いますか。手癖の悪いと思いませんか」
「それは…まぁ」
カミュは言葉を濁らせた。
「しかし君が貴鬼を引き取らなければもっと不幸なことになっていたかもしれない。貴鬼もだが,君もだ」
「そうでしょうね。きっと貴鬼がいなければ私も自暴自棄になって何をしでかすか分かりませんよね。あれていたかもしれない。貴鬼がいたから私も頑張らなくちゃと思って必死に生きていたんですよね。不思議な話ですねぇ,私が貴鬼を育てていると思ったら私が貴鬼に育てられていたんですから」
と,ムウはうつむいた。
「でもね,今でも私,あのときあんな関係になってしまったこと,そんなに後悔していないんです。彼を失ったのは辛いけど,それまでは本当に幸せだったんです」
ムウは涙ぐんだ。
「けっして許されることじゃないことを分かっていたのにねぇ」
さめざめと泣くムウになんていってやればいいのか困ってしまう。
「だから私,誰かに恋するのはやめたんです。人を好きになればまたその人を不幸にしてしまうって思ったのです。そう思えるんです」
ムウはため息をついた。
「でもときどきさびしくなる時があります。自分をいましめて,言い聞かせているけど,さびしいんです」
「無理はしてはいけない。人生は短くないのだから」
カミュが声をかけた。
「ありがとう。貴方はやっぱり私が思っていたとおり優しい人ですね」
「…そうかな。でも君にはアルデバランがいるだろう」
「彼は違うんです。…そう,私彼のことは大好きだけどでもその事を言ったらもう優しくしてくれないかもしれない。彼はその…ノーマルだから,私がそんなことを言ったら気味悪がります」
ムウはカミュの綺麗な長い指に柔らかい手を重ねた。
カミュは少し驚いた。
「ねぇカミュ,…私を抱いて下さいませんか?」
「え…」
カミュは自分で自分にフリージングコフィンを掛けたように固まった。
これは何かのやらせかどっきりかと思った。
どこかにカメラが仕掛けてあるんじゃないかと見回す。
「待ちなさい。待ってくれ。何を言っているんだ。少し酒がまわって判断を失っているようだな」
「…いいえ,そんなことありません」
「しかし…体という物はそんなに簡単に投げ出すようなものではない」
カミュも少し焦っている。
いつも無表情で平静を装っているカミュが少し焦っているのを見てムウは可愛い男の人だと思った。
「あのね,私だって寂しいんです。ねぇお願い,アフロディーテには絶対に言いませんから一度だけでいいんです」
ムウはぽろぽろ涙をこぼし直情的に訴えてきた。
これはいけない。ムウはかなり感情的になっている。
カミュは脳細胞を総動員させてなんとか解決策を考えた。
充て身を食らわせて気絶させるか。
いくらムウが黄金聖闘士でも体術ではカミュの方が断然上だ。簡単だろう。しかしそれではあまりにもかわいそうな気がする。
ふとカミュはさっきから自分がちびりちびりと飲んでいた泡盛の瓶に気づいた。
一か八かこれしかない。
カミュは泡盛を口に含んだ。
「来なさい」
とカミュは小声で言った。
ムウはカミュに体をもたせかけてきた。
カミュはムウのほほを両手で支え,キスをした。
ムウがうっとりと眼を閉じたのを合図にカミュはムウの口の中に一気に泡盛を流し込んだ。
普段からあまり酒を飲みなれていないムウはいきなり泡盛を飲まされて頭がくらくらしてぐったりとなった。
倒れたムウをカミュは抱えて2階の階段を上がった。
ムウの寝室は階段上がって右側の部屋で,昼間は日当たりがよさそうな6畳くらいの和室だった。
押入れがあったが,壁側に小さな座鏡と文机とくずかごがある以外は何もなく,こじんまりとしている。
とりあえず畳の上にムウを置いてから押入れの布団を敷き,改めて布団の上に寝かせる。
その後,白羊宮を出て携帯電話でアルデバランにかけた。
そしてムウが一緒に飲んでいて酔っ払って寝ていることを告げた。
アルデバランはもうすぐシフトが交代の時間だから仕事が終わったらまっすぐ帰ると言っていた。
1時間後,アルデバランが大急ぎでやって来た。
「世話をかけたな」
アルデバランは2階のムウが服を着たままエプロンをつけたまま寝ているのを見て顔を横向けにして衣服を緩めてやってから,申し訳なさそうにカミュに言った。
「飲みなれていない酒を飲んだせいだろう。私もうまく止められなくて申し訳なかった」
カミュは涼しい顔で言った。
さっきのひと悶着で酔いがさめてしまったのだ。
「少し…ムウは気持ち的に疲れているんじゃないか。色々と話をした。一人で結構頑張りすぎている」
カミュはそれとなしに話した。
「ムウが助けてくれるから俺は安心して仕事に行ける。俺はいつもそのことでとても感謝している。なかなか口には出せないけど」
アルデバランは頭をかいた。
「そのことにムウは不満を持ってはいない。むしろ家事にやりがいを感じていると思う。ただ,もう少し彼にたくさんの言葉を掛けてやってほしい。君と貴鬼でたくさん話しかけて寂しくないようにムウのことを構ってやってくれ」
カミュはそう伝えて宝瓶宮に帰った。
 
 
ムウは布団の中で目が覚めた。
アルデバランが心配そうに部屋の隅でちょこんと正座していた。
「…アルデバラン」
「起きたのか」
ムウはよろよろと体を起こした。
よく眠ったので顔色も悪くなかった。
ただそこにカミュはもういないことが分かる。
ただ,アルデバランが本当に困った顔をしてこっちを見ている。
「…アルデバラン。いくらなんでもあなた勝手に私の寝室に入って来るなんてあんまりですよ」
「…あ,いや,でも具合が悪そうだったから心配して来てみたんだ。いつもならこの時間何ら起きてるのに今日はどうしたのかなと」
アルデバランは申し訳そうにうつむいた。
その落ち込み方があんまりだったので,ムウはちょっと罪悪感を感じてしまった。
「…そうだ。今日はサマーキャンプから貴鬼が帰って来る日だろう。解散場所のバスセンターまで迎えに行かないと」
アルデバランがあわてて立ち上った。
「そ,そうでした」
ムウも慌てて布団から飛び起きた。
「ムウ,なんなら寝ていてもいいぞ。俺一人で行くから」
といい掛けてカミュの言葉を思い出すアルデバラン。
―もう少し彼にたくさんの言葉を掛けてやってほしい。君と貴鬼でたくさん話しかけて寂しくないようにムウのことを構ってやってくれ
「い,いいや,二人で行こう。下で待っているから」
とアルデバランは寝室を出て行った。
ものの十分でムウはお風呂に入って服を着替え,アルデバランと一緒にアテネのバスセンターに車で行った。
サマーキャンプのバスからリュックを背負い,真っ黒に日焼けした貴鬼が飛び降りてムウとアルデバランの所に走って来た。
「ただいま!!ムウ様,アルデバラン」
「おかえりなさい,貴鬼」
アルデバランは貴鬼のリュックを肩にかけ,右手を引っ張り,貴鬼の左手をムウが引っ張った。
「貴鬼,キャンプは楽しかったか?」
アルデバランが聞くと,
「うん!!友達もたくさんできたよ。みんなよその学校の子たちなんだけどすぐに仲良くなったよ」
と楽しそうに言った。
「でもオイラうちがやっぱり一番いいや」
「ハハハ,そうだな,帰ろう帰ろう」
「その前におなかすいちゃったよ。ねぇねぇ朝マック寄ってこうよ!!」
「そうだ,それがいいな。なぁムウ?」
「フフフ,仕方ないですね」
3人はターミナル近くのショッピング街の方へ歩いて行く。
そのとき,ムウは反対側のターミナルで白いセルシオを見つけた。
間違いない,カミュだった。
カミュはアフロディーテの荷物を車に載せているところだった。
こちらには気付いていない。
声を掛けたらきっと昨日の自分のやったことを思い出してしまい辛くなる。
冷静になって考えてみるとカミュにあんな話をしたことも迫ってしまったことも自分の間違いだった。
どうしてあんなお馬鹿なことをしたのだろう。
 
ところがカミュの方がムウに気が付いたようだった。
あの端正な笑みでこちらを見ようとする。その笑顔はムウによかったなと言っているようだ。
しかしムウはあえて背を向けた。そうする方が自分のこれからの為だと思った。
そして貴鬼の手を引っ張ってアルデバランと一緒にショッピングセンターの人ごみの中に姿を消した。
                <完>