カミュは仕事の帰りにアテネの駅前のファッションビルのジュンク堂へ立ち寄った。
そこのジュンク堂は専門書が多く,広くて清潔なので,ゆったりと本を選ぶのに適していた。
いくつか気に行った弦楽器の専門書を買ってレジへ足を向けた時,雑誌コーナーの前を通るが,そこで足を止めた。
本日発売のコーナーに積んである雑誌が目に付いた。
結婚情報誌のゼクシィだ。
カミュもテレビのコマーシャルでみたことくらいある。
―そうだ,今後の予定を立てるための参考にこれを買っておこう。
カミュはファッション雑誌の棚からゼクシィを探し出して手に取った。
しかしレジに向かう途中で足が止まった。
女性客が多いファッション雑誌の棚の中に自分が入って行ってゼクシィなんて取ったら周りの人はなんて思うだろうか。
数年前に三十を過ぎた男が一人でゼクシィを買ったらレジの人から『このお客さんは男のくせに相手もいないのにゼクシィなんか買って頭おかしいんじゃないだろうか』と思われはしないだろうかと心配になってきた。
しかしいまさら手に取ったゼクシィを戻しに雑誌の棚に行ったら周りにたくさんいる女性のお客さんに『この人はレジの人から『このお客さんは男のくせに相手もいないのにゼクシィなんか買って頭おかしいんじゃないだろうか』と思われはしないだろうかと心配になって雑誌を戻しに来た』と絶対に思われる。
―ううむ,どうすればいいのか。
カミュはゼクシィを持ったまま,レジの周りをうろうろしていた。
そこへカミュの事を知る人物がやってきた。
新刊のマンガを買いに来たミロだ。
カミュがレジの周りをうろついているので声をかけようとしたが,挙動が不審なので,
―もしかしてエロ本買おうとしてるんじゃ?レジに持って行く勇気がないのか。
と勘繰った。
勝手にそう納得したミロは,こういうときは声をかけないのが男同士の友情だと気遣いをして,カミュに声もかけず買いたかった漫画だけをさっさと購入して店を出て行った。




それでもしゃべりたくてお口がむずむずしていたミロはアイオリアに話した。
たまたまアイオリアが外でストレッチ体操しているので出会ったのだ。
「えっカミュがエロ本買ってた?」
「うん。レジに持ってくの勇気がいるみたいでさ,ずっと動物園のクマたいにレジの周りをいったりきたりしてたよ」
「かわいそうじゃん。声かけてやればよかったのに」
「おいおいアイオリア。お前は若いから分からないだろうがこういうときは声をかけないというのが男の友情なんだ」
ミロは知った風にフフンと笑った。でも本当に男の友情として気遣うなら人にべらべらしゃべらない方が気づかいになるんじゃないかとアイオリアは思った。
「とにかくアフロにだけはしゃべんな」
ミロは指を口にあてて言った。
ところがアイオリアの顔が固まっている。
「ミロ,もう無理っぽいぜ」
後ろにアフロディーテが立っていた。
白いほっぺたを真っ赤にして。
「それは本当なの?」
アフロディーテの左手から黒薔薇が現れた。
「い,いや,その,俺はただ見ただけだから…」
ミロはやられる,と思って身構えた。
しかしアフロディーテは真っ赤な目をして震
えている。
「…あ」
ミロは困ってしまった。
「いやいや私は信じない」
アフロディーテは頭を押さえて首を振りだした。
そんなに大きなリアクションをするとは思わなかったのでミロもアイオリアもびっくりした。
「わー,わー,どうしよう」
アイオリアはおろおろした。
二人がおろおろしていると,アフロディーテの声を聞きつけてデスマスクが飛んできた。
「どうしたアフロ。こいつらがいじめたのか」
「誤解だよ,誤解」
ミロがあわてて言った。
「カミュが本屋さんでエロ本を買おうとしているらしいのよ」
アフロディーテがヒステリックな声を上げた。
「けどエロ本くらいでなぁ…。デスマスクはからも何とか言ってくれよ」
ミロは救いを求めるようにデスマスクを見た。
「気に入らねぇ!!アフロという存在がありながらエロ本なんか買うんじゃねぇ。アフロ,俺が直々に成敗してやっからな」
デスマスクの反応はミロの期待していたものではなかった。
デスマスクは原則としてアフロディーテの肩を持つという鉄則は,聖闘士に同じ技が二度通じないのと同じくらい常識であることをミロもアイオリアもうっかり忘れていた。
それでもアフロディーテは涙を浮かべて首を振り続けている。
無理もない。ミロのような男だったら少々エロ本を買おうがアダルトDVDを借りてこようが誰もなにも思わないだろう。
問題はカミュがいつもクールで知的な美青年であるという意外性が今回のような事件を引き起こしてしまったのだ。
カミュはいつでもアフロディーテが話しかけると知的なほほ笑みで答えてくれる。
自分からは絶対にアフロディーテに触れて来ない。
アフロディーテが自分からカミュの首にしがみつくとようやくカミュはためらいながらアフロディーテの背中に手を回す。
アフロディーテはそんなカミュがとても愛おしかった。
知的で上品な王子様のカミュが好きだった。
それを裏切られた気分だった。
「…男なんてみんなそんなもんだってさ」
よせばいいのにミロがなぐさめにもならない言葉をかけた。
するとアフロディーテは顔を上げてものすごい怖い顔で睨んできた。
もういいから黙ってろ,とアイオリアは思った。
「くだらない事で悩んでるわね」
いつの間にか騒ぎを聞いてシオンが来ていた。
「ついてらっしゃい」
シオンがアフロディーテの手を引いて天秤宮への階段を上った。
気になったのでミロとアイオリアも付いてきた。
アフロディーテはびっくりして引きずられるように歩いた。
シオンはアフロディーテを天秤宮の中の自分達の寝室に引張り入れた。
12畳ほどの広い洋間で,部屋の真ん中にクイーンサイズのベッドがある。
シオンはベッドのわきのクローゼットを開けて,中からプラスチックの洗濯かごを出した。中には童虎の服が綺麗に洗濯されてたたんである。
それと難しそうな中国文学の本がいくつも並んでいるが,それもどけた。
シオンは洗濯かごと書籍をどけたクローゼットの奥を指差した。
覗くと,大量のエロ本とアダルトDVDがたくさん突っ込んである。
安物のビニールのダッチワイフもある。
アイオリアとミロは大量のコレクションに目を丸くした。
「うわー」
シオンは腰に手を当ててため息をついた。
「…あの人は隠してるつもりでもばればれなのよね。こんな所に読みもしない難しそうな本が置いてあるんだから」
「…これ,見付けても怒らないんですか?」
アフロディーテが質問した。
「だってしょうがないじゃないの。いまさらどうしようもないでしょう。このコレクション程度だけじゃないわよ。あの人若返ってからキャバクラやソープに行ってるの知ってるけど,お小遣いの範囲で行ってるから私も黙っているの。だって外で本気で浮気されるよりもよっぽどましよ。貴方もそう思わない?」
シオンに言われてアフロディーテは分かったような分からないようなあいまいな表情で口をへの字にゆがめた。
自分の中でまだ納得がいかないところがあるらしい。
「…まぁあなたの気持ちも分からなくはないわよ。一度私が旅行中にデリヘル呼んだのが分かった時は,3日間夕飯抜きで,1カ月日干し(夫婦関係なし)でさらに小遣いカットしてやったわよ。私言ってやったわ。あなたがお小遣いの範囲で好きなことするのか勝手だわ。でも,家ではやめて,ここは私とあなたの家だからって」
シオンはそこまで言って鼻息を荒くした。
デリヘルを1回家に読んだだけで,そこまで制裁を加えるシオンも怖いが,前の聖戦の生き残りである鋼鉄の女のシオンと言う妻を持ちながら堂々と自宅にデリヘルを呼ぶ童虎も相当の命知らずである。
ただ,分かった事は,シオンの童虎に関する悩みはカミュのエロ本疑惑なんてとても小さな問題だ。
「でもね」
シオンは言った。
「私達は243年も夫婦してきたのよ。もちろんこういうことは今までに何度もあったわ。だけどもうずっと一緒にいたら少々のことでは腹も立たなくなってくる。だからね,あなたも今すぐそう言う事に寛容になれとは言わないけど,でも,結婚したらそんなことでいちいちめくじらを立てていたら疲れると思うの。結婚生活には寛容な心と鈍感さも必要よ」
シオンの言葉をアフロディーテは黙って聞いていた。
シオンの言葉は童虎と供に花も嵐も踏み越えた243年分の夫婦生活の経験の結果に出た言葉だったからだ。


さて,一方でジュンク堂のカミュのはまだ雑誌を持ってレジの周りをうろうろしていた。
さっさとレジに持って行かない方がよほど怪しいのにも関わらず。
「カミュ」
後ろから声を掛けられてカミュはびっくりした。
まさかこんな雑誌を買っているところを見られたらどうしようかと思ったからだ。
振り返るとアフロディーテがいた。
「…あの,カミュが帰って来ないから…見に来たの」
するとカミュは気まずい顔をするどころか,ニッコリして,
「ああよかった。君が来てくれて」
「?」
「私一人ではとてもこの雑誌をレジに持って行くのが恥ずかしくてね」
カミュは持っていた雑誌をアフロディーテに見せた。
それがエロ本などではないことは読者諸兄もすでにご存じだろう,さっきからカミュが持っていたのは結婚情報雑誌のゼクシィだ。
アフロディーテは突然の事で訳が分からない。
「これからの事,色々考えようと思うとやっぱり情報は集めといた方がいいと思って買いたいとは思ったが,一人でレジに持って行く勇気がなくてね」
「えっどうして」
「だって私が一人でこんなものをレジに持って行ったら店員に『この人はいい年して相手もいないのにこんな本なんか買ってどうするつもりなんだろう』と怪しまれるだろう?そう考えると二の足を踏んでしまってね」
カミュは照れ笑いした。
アフロディーテは泣いたような笑ったような顔をした。
ああ,この人はやっぱり私の知っているカミュだと思った。
奥手で心配性で。それでもちゃんといつも私との未来の事を考えている愛しい人。
「しかしうまい具合に来てくれて良かった。これでレジに行ける」
カミュはそんなアフロディーテの気持ちなど知らずにそう言った。
「本当に…カミュって」
アフロディーテはそう言いかけて,
「ううん,なんでもない」
と首を振る。
「そうか」
カミュはためらいながらもアフロディーテの手を取って二人でレジへ行った。
そして会計中もカミュはずっと照れたようにうつむいていた。
でも実際は身長180cmを越えるカップルがにへらにへらしながらゼクシィをレジに持って行くよりもカミュが一人で行った方がよっぽど目立たない。そんなことにカミュは気付いていない。

本屋から出るとカミュはまだ照れ笑いをしていた。
「しかし私が人生でこのような結婚情報誌を買うようなことになるとはな」
「私もびっくりした。でも嬉しい。あなたが自分からそんなものを買おうとするなんて」
帰ってくると,アフロディーテはミロとアイオリアとシオンとデスマスクに誤解が解けたことを話した。
「なーんだ。エロ本じゃなかったのか」
ミロが言った。
「私がそんな下らないものを買うわけがないだろう」
カミュがギロリとミロを睨む。
「元はと言えばお前が勘違いしたせいでみんなに迷惑がかかってしまった」
するとシオンが,
「いいじゃないの。雨降って地固まるってことかしらね」
と言った。
「ほんとほんと。カミュをぶっ飛ばさずに済んでよかったな,デスマスク」
アイオリアがデスマスクに声をかけると,デスマスクは,
「…あー,まぁそうだな」
とカミュの腕にしがみついて笑うアフロディーテを見て複雑そうな表情だった。
それを見てアイオリアが首をかしげると,シオンが,
「…まぁあなたにも女兄弟がいれば分かるわよ」
と言った。

←もどる